「少年が見た死体の山」「目の前で撃たれた母子」語り継がれる記憶 『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』

防空壕は命を救ったか?
日本の戦火を知る祖父・祖母の世代は少なくなり、10万人の命を奪った<東京大空襲>の記憶も薄れつつある。本作は当時を知る31名の実体験を記録し伝えるドキュメンタリー映画であり、語られるエピソードがそのまま非常に貴重な資料にもなっている。

『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』©mkdsgn + simple life association
空襲については全国各地、様々な形で体験者の証言が紹介されることで、その実態への理解は少しづつではあるものの広まりつつあるようにも感じる。たとえば<防空壕>は、爆撃が終わるまでじっと身を隠す=命を守ることができる堅固なシェルターというぼんやりとしたイメージが覆された。爆撃の直撃を避けて即座に消火活動をするための一時的な避難所という実態。それは戦時中も同様で、爆撃を避けようと壕内に残ったために命を落とした人が大勢いたという。
“爆撃を避けつつ、壕から出て直ちに消火せよ”――防空法による強制力もあり、焼夷弾の直撃を避けられた人々が消火活動を行ったために逃げ遅れ命を落とした。もちろんまったく効果が無かったわけではないが、数十万人の被害者は竹槍と同レベルの無茶をまかり通した結果とも言えるだろう。
信州出身の童画家・武井武雄による「戦中・戦後気侭画帳」には、政府省庁お抱えのレストランだけは空襲直後でも豪勢な料理が出たと、詳細なスケッチとともに描き記してある。まさに“あるところにはある”の貴重な記録だが、空襲によって生死を彷徨い、すべてを焼かれ途方に暮れる人々が多くいた中、なぜ“我慢を強いた側”は豊かな暮らしを続けられたのか――。
“えらいひとたち”に言われるがまま黙って息を潜めるのか、異を唱え生きる道を模索するか。その構造自体は現代社会でも継続されている。戦争体験を語り継ぐことが、当時を知らない世代に教えてくれることはとても多い。
『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』は3月14日(金)よりシネ・リーブル池袋ほか公開
『東京大空襲 CARPET BOMBING of Tokyo』
1941 年12 月8 日、日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まる。華やかだった戦前の東京、浅草も終戦間際には焼夷弾の攻撃により、人も家も何もかもが焼き尽くされた。
その渦中にいた上野は、言問橋を渡り逃げ込んだ家から見た火災扇風に人が巻き上げられていた。笹川は浅草から上野方面に逃げるが進めない。同じ時、深川では濵田が炎を潜り抜け清澄庭園に逃げ込み、関野は中川の土手沿いの防空壕で耐えた。
その後に続く表参道への山の手空襲では泉が見た死体の山、終戦間際に襲われた八王子では焼夷弾と機銃掃射の攻撃で、石井の目の前で母子が撃たれる。
一方、荏原では焼夷弾の消火、遺体の処理をした今野は記憶を80 年間胸にしまってきた。
いったい東京で何が起きていたのだろう。
監督:松本和巳
制作:SDGs シェアプロジェクト
製作:mkdsgn 一般社団法人シンプルライフ協会
制作年: | 2025 |
---|
2025年3月14日(金)よりシネ・リーブル池袋ほかにて公開