改革5年目のカンヌ映画祭 「映画とは何か?」を問い続ける

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ライター:#まつかわゆま
改革5年目のカンヌ映画祭 「映画とは何か?」を問い続ける
映画祭もおりかえし点に来て、今日はアラン・ドロンの名誉賞授賞式当日である。振り返れば、開幕前日。ドロンの名誉賞受賞について如何なものかという意見が出たのが、ティエリー・フレモー総代表とのQ&Aの場でのことだった。トップ自らが、カンヌ映画祭の考えをプレス向けに語った記者会見を振り返ってみたいと思う。その言葉からカンヌ映画祭の映画人や映画との向き合い方が見えてきた。

男女平等の推進の結果は如何に

そもそも開幕前日にティエリー・フレモー総代表がプレスの質問に対して答えるという質疑応答の時間が 設けられるようになったのは、新会長ピエール・レスキュールの改革が本格的になり、その理由や意義について総代表フレモーがプレスに説明する必要を感じたからだろう。今までの仕組みを変えるということは大変なことなのである。そして今年は改革5年目。その結果が問われる時期を迎えた。そしてフレモー総代表の口は非常になめらかに、質問の意図を超えて運営陣の公式見解を述べていく。

ピエール・レスキュール©ATG – Olivier Vigerie

プレスにはカンヌ映画祭事務局からニュースリリースが送られてくるのだが、公式見解と数字に基づく資料はそのリリースに書かれている。フレモーはその事実に基づき、改革が効果を上げていること、それは未来への始まりなのだと強調したいのである。それは特に女性映画人の応援「ジェンダー・イクオリティ」ひいては、全ての平等性差別の撤廃までにつながる「終わりの始まり」だという。
基本的には「老若男女、人種、国籍、宗教、イデオロギーなどに偏見を持たず、あくまでも作品中心主義で選ぶ」のではあるが、作品を選ぶ段階で、選出の委員から審査員、職員まで、男女比を考慮するようにした、結果、昨年から初めて意図的に応募者を男女比で統計を取って見たところ、確実に女性映画作家の作品が増えてきていること、学生に至っては応募者の男女比がわずかながら女性が上回るところまできていると、フレモーは胸を張る。
昨年、カンヌ映画祭史上女性監督のコンペ入りはわずか82人であったと世界の女性映画人たちによる声明を出されたことを思い出しつつ、これからはもっと増えていくに違いないとフレモーは語った。

「アラン・ドロン問題」が勃発

アラン・ドロン© 1960 STUDIOCANAL – TitanPlein Soleil de René Clément – Dialogues & adaptation : René Clément & Paul Gégauff – D’après le roman de Patricia Highsmith « The Talented Mr. Ripley » @ 1960 STUDIOCANAL – Titanus S.P.us S.P.A. / Montage & maquette : Flore Maquin

それ以外の今年ならではの質問として上がったのは「アラン・ドロンって、名誉パルムにふさわしいのか」問題。世紀の二枚目スターとして、ヌーベルバーグ旋風の吹き荒れた50年代末から70年代にかけて一世を風靡しながら、数々のスキャンダルにまみれ、女性ファンの熱狂と男性映画ファンの冷たい眼差しを受け、それでもトレンチコートとボルサリーノ姿の孤独な殺し屋役などでギャング物スターとして男性もひれ伏させたアラン・ドロン。近年、カンヌ映画祭に来るときは女優を目指す愛娘の売り込みのため、という感じだった。
特に殺人事件まで絡んだ過去のスキャンダルに「名誉パルムにはふさわしいのだろうか」という疑問を持つ人がいるのだろう。と、思ったら極右政党党首ルペン父と友人だったり、気候変動や同性愛について反動的な発言があったり、#Me Tooのご時世にかつて女性を叩いたりしたことが取りざたされ、スキャンダルでは現役バリバリの人なのであった。ゆえに、「あんなひとにあげちゃっていいのか…」ていわれることになった。が、そこはフレモー「名誉パルムはノーベル平和賞じゃないんだから。人生に対してではなく、あくまでもアクターとしてのドロンに対しての賞だ」と言い切り、拍手を受けていた。事前に否定的な声が聞こえてきたものの、アラン・ドロンはカンヌ入りし、何事もなく名誉パルム・ドールは授与されたのであった。

映画は映画。では、映画とは何か。それを問い続けるのが、カンヌ映画祭なのかもしれない。

文:まつかわゆま

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