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無慈悲な“絶対権力者” ケイト・ブランシェット熱演『TAR/ター』 実在事件を彷彿させるクラシック界のリアル

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ライター:#齋藤敦子
無慈悲な“絶対権力者” ケイト・ブランシェット熱演『TAR/ター』 実在事件を彷彿させるクラシック界のリアル
『TAR/ター』© 2022 FOCUS FEATURES LLC.

想像を超えるケイト・ブランシェットの演技

第95回アカデミー賞の主演女優賞はミシェル・ヨーで決まりだ。何しろ、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』という破天荒な映画の破壊力もさることながら、映画業界に蔓延る女性やマイノリティーへの差別に敏感になった風潮の後押しもあり、アジアのみならず世界の映画ファンから尊敬を集めるミシェル姐さんにハリウッドがリスペクトを示す最高のチャンスなのだから。対抗馬のケイト・ブランシェットの演技が上手いと言ったって、彼女が上手いのは当たり前だし、すでに『ブルージャスミン』(2013年)で主演女優賞を獲っているではないか、と。

ところが、ケイトの主演最新作『TAR/ター』を見始めた途端に、私の確信はグラグラと揺らぎだし、見終わったときにはどこかに雲散霧消していた。それほどケイトの演技は私の想像をはるかに超えていたのだ。

クラシック界の頂点に立つ女性指揮者の素顔

今回ケイトが演じるのは、女性指揮者としてクラシック音楽界の頂点に立つリディア・ター。レナード・バーンスタインを師とし、アメリカの5大オーケストラで指揮者を務めた後、名門ベルリン・フィルハーモニーの主席指揮者に就任して7年。作曲家としての才能にも恵まれ、後進の指導にも熱心な彼女は、自伝を執筆しながら、いよいよ最後に残ったマーラーの交響曲第5番のライブ録音に取りかかろうとしていた。

そんな人生の絶頂にいたターの王国が足下から揺らぐ事件が起こる。リハーサルが始まり、高まるプレッシャーとストレスの中で、ターの教え子だった若手女性指揮者クリスタが自殺したというニュースが届いたのだ。ターは彼女を誹謗するメールをあちこちに送っていた。完全無欠に見えるターだが、自分を脅かす者、反論する者を容赦しない、冷酷な一面を持っていた。

そんなある日、ジャクリーヌ・デュ・プレの弾くエルガーのチェロ協奏曲(※)をYouTubeで聴いてチェロを志したという、恐るべき新人チェリストのオルガ(ソフィー・カウアー)が現れる。彼女の才能に惚れ込んだターは、何としてもオルガにソロを弾かせようと画策する。そんなターの無慈悲な行為が、やがて彼女を抜き差しならない状況へ追い込んで行き……。

(※:エミリー・ワトソンがデュ・プレを演じた『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』[1998年]では、エルガーのチェロ協奏曲を弾く場面もある[音源はデュ・プレのもの])

『TAR/ター』©2022 FOCUS FEATURES LLC.

実在のオーケストラで起こった“事件”を彷彿

指揮者とオーケストラの映画といえば、すぐに巨匠フェデリコ・フェリーニの『オーケストラ・リハーサル』(1978年)が思い浮かぶ。また、本作で名前が出てくる名指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーについては、ロナルド・ハーウッドの戯曲をサボー・イシュトヴァーンが映画化した『テイキング・サイド』という映画があり(日本未公開)、フルトヴェングラーをステラン・スカルスガルド、彼をナチの協力者ではないかと疑い審問するアメリカ軍少佐をハーヴェイ・カイテルが演じていた。

フルトヴェングラーの次にベルリン・フィルの常任指揮者になったヘルベルト・フォン・カラヤンには、新人クラリネット奏者を自分の一存で首席奏者に抜擢した“ザビーネ・マイヤー事件”があって、これがターがオルガにエルガーのチェロ協奏曲を弾かせようとした映画中の“事件”とそっくりなので笑ってしまう。指揮者が権力を振るうと似たような事件が起こるのかもしれない。

ただし、楽団員の方も負けてはいない。ベルリン・フィルは指揮者の権力を抑えるため、カラヤンの後任からは首席指揮者を楽団員が投票で選ぶ方式に変更している。ターが公私ともにパートナーであるコンサートマスター(第1ヴァイオリンのトップ奏者)のシャロン(ニーナ・ホス)を使って楽団員の支持を得ていた遠因は、カラヤンが作ったということになる。

なぜ“音楽”に固執するのか? 無慈悲な性格の理由

ターの複雑な人間性ばかりでなく、オーケストラの指揮とドイツ語まで完璧にマスターしたケイト・ブランシェットには、いつもながらに脱帽する他ないが、加えて、監督のトッド・フィールドが作り上げたクラシックの世界のリアルさ。俳優が弦楽器の演奏をマネするのは難しいが、俳優にチェロを演奏させるのではなく、チェロ奏者(ソフィー・カウアー)に演技をさせるという逆転の発想が素晴らしい。

けれども私が『TAR/ター』に最も感心したのは、ケイトの名演でも演奏のリアルさでもなく、絶対権力者ターの発想の根底に“音楽”があるという映画の芯の部分だった。ターがなぜ指揮者の座に固執するのかといえば、自分の生み出す音楽が最高だと信じているからだ。なぜベルリン・フィルの指揮者かといえば、世界最高の管弦楽団だからで、そのために手段を選ばないことは彼女にとって、彼女の“音楽”にとって、悪ではないのだ。

マーラーの解釈に異論を唱える副指揮者を外の楽団に飛ばすのも、才能がないと思った者を中傷するのも、彼女にとっては自然な行為で悪気はない。“音楽”に慈悲心や配慮が介在する余地はまったくないし、空気を読む必要などない。人間としては欠陥だらけの困った奴である。

おかげでターは自分が踏みつけた者たちから手痛いしっぺ返しを食らうのだが、どん底に落ちたターに寄り添い、彼女を救うのもまた“音楽”だと匂わせるラストが文句なく素晴らしい。

文:齋藤敦子

『TAR/ター』は2023年5月12日(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー

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『TAR/ター』

世界最高峰のオーケストラの一つであるドイツのベルリン・フィルで、女性として初めて首席指揮者に任命されたリディア・ター。彼女は天才的な能力とそれを上回る努力、類稀なるプロデュース力で、自身を輝けるブランドとして作り上げることに成功する。今や作曲家としても、圧倒的な地位を手にしたターだったが、マーラーの交響曲第5番の演奏と録⾳のプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんな時に、かつてターが指導した若⼿指揮者の死から、彼女の完璧な世界が少しずつ崩れ始めるー。

監督・脚本・製作:トッド・フィールド
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
撮影:フロリアン・ホーフマイスター
編集:モニカ・ヴィッリ

出演:ケイト・ブランシェット
   ノエミ・メルラン ニーナ・ホス
   ジュリアン・グローヴァー マーク・ストロング

制作年: 2022