なぜミシェルはカンフー・スターになったのか?『皇家戦士』で日本初上陸
カンフー映画スター史上初の偉業を成し遂げたミシェル・ヨー。彼女の主演作が日本初上陸したのは、1988年に公開された主演2作目となる『皇家戦士』(1986年)だ。
当時の劇場では『スケバン刑事 風間三姉妹の逆襲』(1988年)と併映された本作でミシェルが披露する、共演の真田広之に引けを取らない華麗かつ鋭いカンフー・アクションを観た時、「この人もジェット・リーやジャッキー・チェンのように幼い頃からアクションか武術の訓練を受けて来たんだろうな」と思っていた。
しかし、ミシェルは20歳を過ぎて映画俳優になるまで、武術やアクションの訓練は受けたことがなかった! なのに何故、中国が世界に誇るマスター・オブ・カンフー・アクターになれたのか? その答えは彼女の少女時代から、映画俳優となりアクション映画で主演デビューするまでの経緯にある。それが、かなりトリッキーなので説明させてもらいます!
……その前に「ミシェル・ヨー、ちょっとイイ話」をひとつ。実はミシェルは大のホラー映画ファンで、人生サイコーのホラー映画は『エクソシスト』(1973年)とのこと。
ジャッキー&ファッチャイとTVCMで共演
ミシェル・ヨーは1962年にマレーシアのペラ州イポーで生まれた。父親は有名な弁護士で、マレーシア華人協会の会長を務めたこともあるという、まるで『クレイジー・リッチ!』(2018年)のような裕福かつ厳格な家庭で育った。そのため10代で初めてボーイフレンドと映画館でデートした時には、母親も同伴したという。
少女時代のミシェルの夢はバレリーナになることであった。4歳からバレエを始めた彼女は15歳になると、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・ダンスで学ぶようになる。しかし17歳の時、練習中の怪我が原因でバレリーナの道を断念することに……。その後も学校に残り、卒業まで振付と演劇を勉強した彼女の将来の夢はバレエの先生になることだった。
1983年、20歳になったミシェルに転機が訪れる。母の薦めでミス・マレーシア・コンテストに出場し見事に優勝。そしてミス・ワールド1983にマレーシア代表で出場しただけでなく、同じ年に旅行で訪れたオーストラリアで開催されたミス・ムンバ/ミス・ツーリズム インターナショナル・コンテストにも出場し優勝してしまう。
michelle yeoh winning 'miss malaysia', 1983 pic.twitter.com/orS4CK2fay
— popculture (@notgwendalupe) February 27, 2023
そんな逸材を芸能界が放っておくはずがなく、彼女に注目したのは香港映画界だった。その経緯も変わっているので、しっかりと説明しておきたい。
1984年、香港に新たな映画会社が設立された。実業家のディクソン・プーンがサモ・ハン・キンポー、『五福星』(1984年)にも出演している俳優兼プロデューサーのジョン・シャムと共に設立した<D&B>(徳寶電影公司)である。
D&Bは映画以外にTVコマーシャルの制作も引き受けており、ギ・ラロッシュの腕時計のTVコマーシャルを制作することになっていた。主演はジャッキー・チェンに決まっていたが。共演する女性が見つからなかった。社長ディクソン・プーンは知人と食事している時に、そのことを話題にした。すると知人は、「自分の知り合いにミス・マレーシアに選ばれた女性がいるよ」とミシェルを推薦する。
そしてミシェルは、ギ・ラロッシュの腕時計のCMでジャッキー・チェンと共演という華々しい俳優デビューを飾っただけでなく、ミシェルの存在感にただならぬものを感じたD&Bにスカウトされ、専属俳優となる。
1984 commercial for Guy Laroche with Jackie Chan and Michelle Yeoh. After this, Michelle was signed to a contract with D&B Films and made her star debut a year later in Yes, Madam! pic.twitter.com/V1oTLpqdn5
— Hong Kong Film Net (@hkfilmnet) May 12, 2020
デビュー作でジャッキーと共演を果たしたミシェルは、その後もギ・ラロッシュのCMに出演し、チョウ・ユンファとも共演。しかも、『男たちの挽歌』(1986年)のようにマッチ棒をくわえロングコートにベレッタM92Fで武装したユンファとミシェルが銃撃戦を繰り広げる、という奇跡のような内容になっている。
Guy LaRoche commercial circa 1985 with Michelle Yeoh and Chow Yun-Fat pic.twitter.com/a5oY3FVK4P
— Hong Kong Film Net (@hkfilmnet) June 9, 2020
「私にアクションをやらせてください!」
D&Bの専属俳優となったミシェルは、サモ・ハン監督&主演作『デブゴンの快盗紳士録』(1984年)で映画デビュー。彼女が演じたのは青少年感化センターのソーシャルワーカーで、アクション・シーンはない。劇中、少年少女たちにからかわれてポロポロ泣きだし部屋からフェイドアウトする……という、今では考えられない弱々しいキャラクターを演じていた。
出演2作目もサモ・ハン監督&主演作の『七福星』(1985年)。今回はサモ・ハンが参加することになる柔道教室の先生役で、サモ・ハンのカンフーVSミシェルの柔道という夢のようなカードが展開される。だが肝心の格闘シーンでは、アップ以外はスタントマンが吹き替えていたので、“アクションスター”ミシェル・ヨーはまだ覚醒していなかった……。と思いきや、本作への出演がミシェルの中に眠っていたアクションスターの血を呼び覚ますことになる。
『七福星』の撮影現場で武術指導も兼任していたサモ・ハンたちが、格闘シーンでの戦い方を出演者やスタントマンに指導している様子を見ていたミシェルは、こう思った。
映画の格闘シーンをやるには、本当に戦うのではなく、戦う真似、つまり振付をおぼえれば良いんだ。基本的には私が習ってきたダンスと同じだ。自分にはバレエで培ってきた身体能力と柔軟性があるから、スタントマンの吹き替えなしで格闘アクションができるのでは!?
というわけでミシェルは早速、D&B社長ディクソン・プーンのもとに行き、「私にアクションをやらせてください!」と直談判。
ちなみにドキュメンタリー映画『カンフースタントマン 龍虎武師』(2021年)を観るとよくわかるのだが、当時の香港映画はジャッキー・チェンやサモ・ハンの危険なスタント満載のアクション映画の全盛期。アクション映画関係者たちの間では、「ライバルの作品がビルの8階から地上のプールにダイブしたなら、自分たちの作品では9階から地上の炎の中にダイブしなければいけない」という、映画製作の話とは思えない壮絶な競争が繰り広げられていて、まさに“いつ誰が死んでもおかしくない”、香港映画が最も危険な時代だった。
そんな時代に、格闘技もアクションも未経験者なのにアクションスター志願をしたミシェル・ヨーは、かなりどうかしてると思う(イイ意味で)。
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文:ギンティ小林
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は2023年3月3日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー