映画ファンには『愛がなんだ』『やがて海へと届く』で、ドラマファンにも『アトムの童』などで演技力に定評のある岸井ゆきの。そんな彼女の新作が『ケイコ 目を澄ませて』だ。
ろう者のプロボクサー、小笠原恵子さんの著書をもとにした本作。『きみの鳥はうたえる』などで知られる三宅唱監督が、舞台をコロナ渦中に設定して新たな物語を誕生させた。
そんな二人に、まずは手話とボクシングへの挑戦について聞いた。
「どうしたらケイコになれるんだろう?」
―岸井さんの起用は企画・プロデュースの長谷川晴彦さんのご提案だったということですが、監督はベルリン映画祭で目がすごく印象的な俳優さんだとおっしゃっていましたね。
三宅:以前から素晴らしい役者であることは当然、認識していましたから「ついていきます!」ということだったんですが、撮影していくなかで目の力を発見していったのかもしれません。なるべく先入観なしで出会って、長い準備期間を一緒に過ごしていくなかで、お互いマスクをしている状況で喋っていることもあると思うんですけど……こんなに目を見て喋ることもなかったので、自然と“岸井さんは目の人だな”なんてことは思いました。
僕は岸井さんの目を見ながらこの映画を作ってきて、そうしたらそのままタイトルにまで“目”が入ってきた(笑)。ファンの方も、これまでいろんな岸井さんの姿を見てこられたと思うんですが、いままでとはまた違う、ケイコという人物を演じている新しい岸井さんの全部を見てほしいなあと思います。
―岸井さんは最初に本作の企画を聞いて、どう思われましたか。
岸井:本当に昔の話になっちゃうんですが、『まんぷく』(2018~2019年)という朝ドラをやっているときに、大阪のカフェで本作のお話を聞きました。その時はまだ何も決まっていなくて、「小笠原(恵子)さんのお話を長谷川さんの企画でやります。監督も決まってないです」っていう状態で、それから時間が経って監督が三宅さんに決まり、でもどうしたらいいかわからない状態はそれからもしばらく続いて。それは映画への力のこめ方がわからなかったというか、どうしたらケイコという人物を身体を使って表現できるんだろう、と。それはボクシングの練習を始めてから……監督も最初から一緒に始めてくれたので、トレーニングをしながら監督と映画の話なんかをしながらやっていく中で、堅実に降りてきたというか。
どうしたらケイコになれるんだろう? と思っていた時間が、練習に打ち込むことによって自分がそう(ケイコに)なっていくことを感じて。それからは、不安というよりも「とにかく、これをやりたい!」と、もう毎週(ボクシングを)やっていました。多いときは週5かな。他のお仕事もほとんど入れないでもらって、“できる身体”にしておこうというか、何かこう……ケイコの気持ちがわかるというか、感情の蓄積みたいなことをしていた気がします。
―ケイコは祝日やクリスマスにも20キロ走ったりしているストイックな役ですよね。身体を作るのも相当大変だったと思うんですが、どんな練習をされていたんでしょうか。
岸井:どんな練習……(考えこむ)。
三宅:例えば、もう最初からシナリオで撮るものが決まっていて、それだけをやるっていうやり方もあると思うんですけど、それだと試合場面はこなせないので、本当に“普通の人がボクサーになる手順”を全部やる。それは映画の中でも、トレーナー役を演じている松浦慎一郎さんがプロのボクシングトレーナーでもあるので、彼が手取り足取り、縄跳びの飛び方から、パンチの打ち方まで一つ一つ、ものすごく丁寧に見てくれたので、それを徹底してやり込んでいくということでした。僕は左利きなので左のポジションで習おうと思ったんですけど、岸井さんは右利きなので、自分が左で習っても何の意味もないなと思い、右利き用の練習を一緒にやって。
岸井:練習ではトレーナー役の松浦さんとずっと一緒でした。松浦さんは映画に映るボクサーとして、良く見えるように計算してトレーニングしてくださったんですが、私はやっぱり前のめりになっていたというか、「どうしてもケイコになりたい!」と。でも、私自身がボクサーになる必要はないですよね。映画としてケイコでいられればいいのに、私はもうどうしても強くなりたいし、ケイコになりたいし、そのためだったら怪我してもいいという気持ちで行ったんですが、そこを松浦さんは、私の気持ちを汲みつつ打ち込めるようにしてくださって。「ここまで頑張りましょう」というのが私にはなくて、やっぱり無理をしてしまうので、一人だったら難しかったと思います。気持ちを聞いてもらいながらやれた時間はすごく大事で、松浦さんは私がケイコになる手助けを3カ月間ずっとしてくれていたんだと思っています。
―でも、あれだけ身体を動かされると撮影後もちょっと走りに行きたいなとか思ったりなさいませんか。
岸井:いまでもやめてはいないんです。やめられなくなっちゃった。
―じゃあ松浦さんのジムで?
岸井:はい、そうです。松浦さんとマンツーマンで。
三宅:かっこいいですよね。
岸井:いまはちょっと釜山(国際映画祭)に行くために筋肉をつけないようにしてるんですけど。
三宅:筋肉モリモリにして行ったら面白いのに!
岸井:(笑)。終わったらまた行きます。
「“全身”での手話言語のあり方というものについて、見て学んだ」
―本作には、女性ボクサーのリアルもすごく反映されていると思うんです。例えば、ろくに練習もせずパンチングボールも叩けない男子が、女ばっかり教えてると文句を言ってきたり。取材などもかなりされたのでしょうか。
三宅:この企画のシナリオを準備していたのがコロナ禍が始まったばかりで、最初の緊急事態宣言が出て本当に世の中が右往左往してる時期だったんです。残念ながら物理的にいろんなところを駆けめぐっていろんな人に出会って取材することは叶わなかったので、基本的には書籍や映像をベースに勉強していました。
―手話はどうやって練習されたんですか?
岸井:監督と東京都聴覚障害者連盟に行って、堀(康子)さんという方に教えていただきました。
三宅:手話は、監修してくださった越智(大輔)さんに話を聞いたり、指導についてくださった堀さん、南(瑠霞)さんと一緒に時間を過ごすということからでした。
岸井:カフェのシーンに登場している長井(恵里)さんたちともそこでお話しをしたんですが、皆さん脚本を読み込んでくださっていて、「こういうときには、こうはしないかも」といったことまでアドバイスしてくださいました。
―それはどんなシーンだったんですか?
岸井:「結局、人は一人でしょう」っていうところとか。
三宅:手話言語は、手の動きだけではなく、口形と表情もセットなのですが、聴者の感情表現のコンテクストと異なる部分もある。そういう時に、なるべく堀さんたちが普段使っているあり方について、色々と質問し、学ばせていただきました。
岸井:手話と口は一緒なんですよね。口の口径も決まっていて、私はそこが一番驚いたところでした。例えば「まま」と言うとき、口は「ま」です(開けてみせる)が、「それは決まってるんですか?」と聞いたら「もう大体そうなります」と。なので、そこは気をつけました。もうそれは感情表現というより、手話表現で。
三宅:言語ですからね。僕らが英語で「これはオブじゃなくてオンがいい」と言っても、オブはオブだし。この比喩は強引かもしれないけど。
岸井:私がそこで感情で先走らないように、ということまで指導してくださって、(ケイコの弟・聖司役の、佐藤)緋美との口喧嘩の「結局、人は一人でしょう」のところとかは、「もうちょっと強くなるんじゃないかな」みたいなことまで脚本を読んでくださったりしたんですが、最終的には緋美との対話の中で芝居していきました。
「なんかこういうときって、こうなんじゃないかな」っていう、そういうやりとりができたのは、すごく……それって別に、耳が聞こえる聞こえないっていうところの話じゃないような気がして、そういったやり取りができたのは良かったなと思います。
三宅:なかなか自分の違和感とかって表明しづらかったりすると思うんですけど、この映画に携わってくれた人たちはみんな、少しでも違和感があったり「もっとこうした方がいいかも」って思うと、とにかくオープンに、まずは相手に伝えてみるっていう人たちだったと思うんです。だからそういうエネルギーに支えられて、当然大変なんですけど、楽しいんですよ、やっぱり。ボクサーたちも相手を正面から見る、手話する人たちも正面で身体を向き合って喋る、っていうところがあったので。
なんだろうな、映画関係者たちも、また堀さんをはじめとする皆さんも、いろんな人たちがこう、どーんと、岸井さん、あるいは僕にこう(まっすぐ身体を向けて)向いてくれたことが、映画全体のトーンを作っていったかなと思います。(岸井さんに)そうじゃないですか?
岸井:はい。
「(ろう者の描き方は)本当に一歩ずつ、ちょっとでも何か気になったら相談して」
―手話話者の方たちから「手話をしない多くの場面についても、何をどう捉えてどう演出すべきか、多くの示唆をいただいて」と言われていましたが、例えばどんなことがありましたか?
三宅:あまりにも多くて……なんだろう、でも良いエピソード出したいですよね(笑)。ちょっと待ってくださいね、なんだろうなあ……。
―人が近づいてきたとき、わずかに反応が遅れるような動作とか、誰かがスッと後ろからケイコのそばに来たときの反応とかも、一つ一つ……。
三宅:越智さんや堀さんらにお会いして、現場にも何度も来てくださったのですが、そこで僕なりに観察しながら自分が感じたことがまず出発点で。でも、もしかしたらそれも勘違いかもしれないから「僕にはこのときこう見えたんだけど、実際そうですか?」っていうことをお聞きしたら、「そうです」とか「いや、それはあなたの勘違いです」とか。
僕も本当にわからない前提だし、全部わかることは当然ないんですけど、本当に一歩ずつ、ちょっとでも何か気になったら僕も聞くようにして。この映画で言うと手話言語だけじゃなく、ただ道を歩いているとか、人と対峙していないとき、部屋にただ佇んでいるときですら何かが違うかもしれないので、そういうことを色々と質問させていただいて……抽象的な言い方になっちゃった(笑)、すみません。
―例えば目覚まし時計も扇風機でしたし、チャイムが鳴るときに明かりがつくのに、それを無視したりするシーンがあって。
三宅:僕も脚本を書いていろいろリサーチしている段階で、そういう生活のなかのさまざまなことに気づくわけです。越智さんに色々聞いたんですが、「どうやって起きてるんですか?」みたいなことも全部教えてもらえたので。目覚ましとしては振動するものなどもあるよ、などなど越智さんが色々と提案をしてくれました。
岸井:ちょっとドキッとしました。チャイムが鳴って光るのは見たことがあったんですけど、どうやって起きてるかっていうのは(知らなかった)。
三宅:(ケイコは)早起きしなきゃならない人だしね、朝練あるから。
取材・文:遠藤京子
撮影:白井晴幸
『ケイコ 目を澄ませて』は2022年12月16日(金)よりテアトル新宿ほか全国公開
『ケイコ 目を澄ませて』
不安と勇気は背中あわせ。震える足で前に進む、彼女の瞳に映るもの――。
嘘がつけず愛想笑いが苦手なケイコは、生まれつきの聴覚障害で、両耳とも聞こえない。再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ねる彼女は、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され、言葉にできない想いが心の中に溜まっていく。「一度、お休みしたいです」と書きとめた会長宛ての手紙を出せずにいたある日、ジムが閉鎖されることを知り、ケイコの心が動き出す――。
監督:三宅唱
原案:小笠原恵子「負けないで!」(創出版)
脚本:三宅唱 酒井雅秋
出演:岸井ゆきの
三浦誠己 松浦慎一郎 佐藤緋美 中原ナナ
足立智充 清水優 丈太郎 安光隆太郎
渡辺真起子 中村優子 中島ひろ子 仙道敦子
三浦友和
制作年: | 2022 |
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2022年12月16日(金)よりテアトル新宿ほか全国公開