何も知らない
この作品は1956年に東西ドイツを舞台に起きた実話を基に作られている。
ナチスドイツ、ヒトラーを題材にした映画のほとんどは実話がベースになっているので、特段新しい話ではないが、エンドロールでこの作品も実話だということを知って驚いた。
まだ10代の若者たちがここまでの決断をし、実行に移したとはにわかには信じられなかった。
ドイツは1949年に東西に分裂する形で、それぞれ米・英・仏・ソの占領下から独立した。
東ベルリンで反ソ暴動が起きたのは1953年だったが、まだ社会主義は資本主義をやがて凌駕し、世界を飲み込むと楽観的な希望を多くの東ドイツ人は抱いていた。
そこを間違えるとこの映画はストンと胸に落ちない。
だから、私は鑑賞の後、再度当時のベルリンの様子を調べてみて、知っているつもりのことだらけだったと深く反省をしたが、どれだけの人がこの映画を観て、「そうだよ、そうだったんだよ」と言えるんだろう、とただの負け惜しみを口にしたくもなった。
1956年10月にハンガリー動乱が起き、多くの市民がソ連軍によって殺害された。
その事実を主人公である東ドイツの高校生が西ベルリンの映画館で上映されたニュースで知ったところからの2ヶ月間をこの作品は描いている。
さて、ではここで問題です。
どうして東ドイツの市民が西ベルリンで映画を見ることができたのでしょう。
答えは3択です。
1.命がけで国境を超えて映画を観に行った
2.馬の着ぐるみを身につけ馬車を引いて潜入した
3.自由に往来できた
ヒントはすでに私が書いています。
故国への不信
まず答え合わせから。
命かけてまで映画を観に行かないだろ。
着ぐるみと答えた人は病院に行ったほうがいい。
正解は、3で西ベルリンとの境界で「何しに行くの?」みたいな簡単な検問はあったけど、ほぼ自由に行き来できていた、でした。
なーんで、暴動が起きたり、他の衛星国(ソ連が実効支配していたに近い国はソ連崩壊まではそう呼ばれていました)で動乱の末に大量の死者が出ているのに簡単に通すんだ、と思うでしょ。
私もそう思った。
しかし、東ドイツ政府もソ連も自信があったんですよ。
未来が輝いている故国を捨てて、腐臭漂う資本主義国に亡命するバカはいないと信じていたんですよ。
甘いね。
そうしているうちに、あらあら、青年たち、知識人、熟練労働者がどんどん向こう側に逃げ出しちゃって、その結果頭にきた政府は1961年に東西ベルリンの境界を完全に封鎖し、全ての通行を遮断。
で、ベルリンの壁を作り、乗り越えようとする者は射殺という事態にまで及びました。
話を戻そう。
西ベルリンでハンガリー動乱のニュースを観てショックを受けた高校生は、学校のクラスで黙祷を提案する。怖くて反対する生徒もいたが、結局一同歴史の授業中に2分間の黙祷を決行する。
しかし、当然のことながら学校は政府、また政府はソ連の強烈な圧力を受けているから「反社会主義的動乱」を追悼するような行為を許すわけにはいかない。
学校内でなんとか事を収めようと努力していた校長だったが、「黙祷事件」は学校外に漏れてしまい、甘い処分では許されなくなってしまった。
どうする生徒諸君。
君の故国は首謀者を厳罰に処したい。
どうしても君たちを黙らせたい。
言いなりにさせたい。
君たちに選択肢はなさそうだ。
残された可能性はないのか。
この作品は単純に「悪の社会主義」対「善の資本主義」を描いたものではない。
全然ない。
当時、青春を謳歌していた若者たちが、彼らなりの極限状態に直面したときにどういう行動を取ったのかを描く青春映画であり、その過程にサスペンスの要素を盛り込んだ「娯楽映画」でもある。
アメリカではサンダース大統領、イギリスではコービン首相が誕生することを願っている社会民主主義者の私は、皆さんが「やっぱり社会主義国ってひどかったから、社会主義ってありえないよね」という分かりやすい感想だけで終わっていただきたくないので、あえてしつこく書くが、この作品は青年たちが怒り、迷い、決断するまでを描いた堂々たる青春映画である。
しかし、日本の若者はあまり怒らないね。
どうして?
文:大倉眞一郎
『僕たちは希望という名の列車に乗った』は2019年5月17日(金)Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開
『僕たちは希望という名の列車に乗った』
1956年、冷戦下の東ドイツ。高校生たちのたった2分間の黙祷が、やがて国家を揺るがす大事件に発展する。友を密告してエリートへの階段を上るのか?信念を貫いて労働者として生きる道を選ぶのか?クラスメイト19人の驚くべき決断とは…。
制作年: | 2018 |
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監督: | |
出演: |