知っているつもりだったドレフェス事件
ドレフェス事件って、あれでしょ、フランスで起こったドイツのスパイ事件の人、第一次か第二次世界大戦の時の話でしょ。とバカ丸出しのことくらいしか思いつかなかった私。ドレフェス事件の話、というくらいしか試写の案内を見ていなかった私は、あまりにも混濁した私の記憶にのけぞった。全然知らなかったか、忘れてた。多分知らなかったんじゃないか。
『オフィサー・アンド・スパイ』は1894年に起きたドレフェス事件を描いているのだが、現在、世界中に蔓延している軍隊の無謬性への盲目的な信仰、あっという間に広がっていったユダヤ人へのさらなる偏見、極右勢力の伸長、ジャーナリズムへの不信感を写し取ったかのようである。
ドレフェス事件は第一次世界大戦よりずっと前の話。普仏戦争(1870年~1871年、フランス対プロセインの戦争。この戦争でプロセインはドイツ帝国に生まれ変わった)後、フランスはアルザス=ロレーヌをドイツに割譲した上、多額の賠償金を支払うこととなる。その後、ドイツへの遺恨を残したままフランスはこれまでの植民地に加え、東南アジア、アフリカの植民地化を急ぎ、帝国主義への道を進んでいく。特にここでフランスだけを批判するつもりはない。ヨーロッパ各国が行動を同じくしていたのだから。
そんな時に起きたのがドレフェス事件である。フランス陸軍内部にドイツへ機密情報を流しているスパイがいると疑われる文書が発見された。誰が疑われてもおかしくない状況だったが、ドレフェスの筆跡が文書に残されていたものと似ている、という理由だけで逮捕されたうえ終身刑を言い渡され、フランス領ギアナ沖の島へ送られた。砲兵大尉だったドレフェスはユダヤ人であった。
なぜドレフェスは有罪となったのか
映画はドレフェスが逮捕された翌年の1895年、多数の軍関係者が参加する式典で勲章を剥ぎ取られ、軍人としては最悪の辱めを受けるところから始まる。ドレフェスがスパイだった証拠は全くなかった。「筆跡が似ている」だけ。
ドレフェスのかつての教官、ピカールはどうしても教え子がスパイだったとは信じることができなかったが、スパイでないという証拠を得ることは不可能である。それにピカール自身、ユダヤ人に対して嫌悪感も抱いていた。しかし、中佐に昇格し、軍情報局の責任者として着任するとその部門の情報取り扱いのいい加減さ、風紀の乱れに驚く。部下のはずの少佐はピカールに面従腹背だったのだが、そのうちに憎悪感を露わにするようになる。
そんな時にあることから、スパイ事件に関して別の容疑者が浮かんでくる。それだけではない。ドレフェスは冤罪、いや、犯人に仕立て上げられた可能性も否定できなくなる。そこからこのスパイ事件は、新たに強烈なユダヤ人差別を浮かび上がらせることとなる。しかし、ピカールは上層部に問題を提起するが、逆に叱責され、アフリカへ左遷されることになる。どうなる、ドレフェス。どうする、ピカール。
ドレフェス事件がどうなったかは、ウィキペディアで簡単になぞることができるが、この作品ではその信じられない過程が明らかにされている。私を含め、ドレフェス事件が意味するところを把握しておくことは、現在起きていることを理解する上でも極めて重要である。
ナチスだけが反ユダヤ主義に染まっていたのか
ロシアが“ナチスを倒す”とウクライナに“軍事侵攻”を開始してからしばらく経つが、「ナチス」が何を指しているのか判然としない。ゼレンスキー大統領はユダヤ人なのだからナチスであるはずがないだろう、という解説もその通り。ただ、ナチス自体極端な国家主義、民族主義を唱え、反ユダヤ主義、アーリア人至上主義を振りかざしたが、ドイツだけ、ナチスだけが旗を振っていたわけではない。
ドイツでは普仏戦争後、投機ブームが起こり一時的に活況を呈したが、その後、世界的に恐慌、好況を繰り返し、状況が不安定化する中、ヨーロッパ全体を反ユダヤ主義が覆っていく。ユダヤ人は各国で目覚ましい躍進を遂げ、ほぼ全ての業種に進出した。例を挙げれば19世紀末、フランクフルトではユダヤ人市民の納税額はキリスト教市民の4倍から7倍、大学入学率は10倍から15倍にまで膨れ上がる。社会主義者からすればブルジョワジーという敵であり、資本家にとっては社会主義者・革命家であった。ユダヤ人は四面楚歌である。
当時、反ユダヤ主義が燃え盛っていたのは、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、フランス、ロシアである。フランスの反ユダヤ主義はドイツと同様に強烈で、ユダヤ陰謀論が盛んに唱えられるようになる。ドレフェス事件はそこにさらに火をつけることとなったのである。ナチスの反ユダヤ主義は、決してドイツから生まれたものではない。
『オフィサー・アンド・スパイ』を観て、反ユダヤ主義はフランスから生まれたのではないかと錯覚したが、それは間違っており、調べていくうちにヨーロッパ全体を覆っていたユダヤ人嫌悪が、ナチスにとっても都合のいいものだったと考えるようになった。
当然のことながら、ナチスドイツの許し難いユダヤ人虐殺を庇う気は毛頭ないが、ヴィシー政権下でユダヤ人狩りに手を貸したフランス人が多数いたことも忘れてはならない。その後、各国で続いたユダヤ人排斥も同様である。
この作品の監督、ロマン・ポランスキーは母親がアウシュビッツで殺されたユダヤ人である。
文:大倉眞一郎
『オフィサー・アンド・スパイ』は2022年6月3日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開
『オフィサー・アンド・スパイ』
1894年、フランス。ユダヤ人の陸軍大尉ドレフュスが、ドイツに軍事機密を流したスパイ容疑で終身刑を宣告される。ところが対敵情報活動を率いるピカール中佐は、ドレフュスの無実を示す衝撃的な証拠を発見。彼の無実を晴らすため、スキャンダルを恐れ、証拠の捏造や、文書の改竄などあらゆる手で隠蔽をもくろむ国家権力に抗いながら、真実と正義を追い求める姿を描く。
監督:ロマン・ポランスキー
脚本:ロバート・ハリス ロマン・ポランスキー
原作:ロバート・ハリス「An Officer and a Spy」
音楽:アレクサンドル・デスプラ
出演:ジャン・デュジャルダン ルイ・ガレル
エマニュエル・セニエ グレゴリー・ガドゥボワ
メルヴィル・プポー マチュー・アマルリック
制作年: | 2019 |
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2022年6月3日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開