1969年、ベルファスト
北アイルランド、ベルファスト、8月15日、9歳の少年が母親から夕食に戻るよう促されるところから、映画『ベルファスト』は始まる。
日常の幸せに満ちた路地が突然、暴徒に襲われる。それまではプロテスタント教徒であれカトリック教徒であれ、同じ路地に住んでいる住民たちが憎み合って生活するような空気は皆無だったのだが、プロテスタントである少年はそこで初めて、わけのわからない暴力に対して怯えていなければならないことに、ただ呆然とする。しかも、路地を襲ったのはイギリスとの連合を目指すプロテスタントの若者たちである。
父親はベルファストでは仕事がないためロンドンに出稼ぎに出ていて、普段は母親と暮らす。物騒にはなってきたが、母親は生まれ住んだこの街を出ていくことなどカケラも考えたことがない。自分がプロテスタントであるかカトリックであるかなぞ、どうでもいいのである。子供が通う小学校は普通に両者が机を並べ、異性を意識する相手がどちらの宗派に属しているかなぞ関係ない。いきなり起きた暴徒の襲撃は恐怖でしかないが、そんなことが続くはずはないだろうとたかを括っていたところ、状況は微妙に変化を始める。
この作品では北アイルランドでの紛争に触れてはいるが、紛争そのものを描いたものではない。ベルファストという、いかにもアイルランドの街らしい街に住む一家が、いかに幸せを希求していたかがテーマである。
ベルファストでの幸せは続くのか。答えは既に観る側はわかっているが、それでも少年を取り囲む街の佇まい、人々の笑顔がこのまま変わらずにいてほしいと心から願わざるを得ない。そんな作品。
俳優、監督、ケネス・ブラナー
ケネス・ブラナーといえばウィリアム・シェイクスピア。<ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー>を皮切りに、自身が作った<ルネサンス・シアター・カンパニー>でもずっとシェイクスピア。
映画で監督するものも演じるものも、やたらとシェイクスピア、あるいはシェイクスピア関連のものが多い。私は監督作品では『世にも憂鬱なハムレットたち』(1995年)が一番好きだが、本人が何を気に入っているのかは知らない。とにかく、やたら多い。そんなにシェイクスピアが好きか? シェイクスピアから離れると、なぜだか『ワイルド・ワイルド・ウエスト』(1999年)のような作品にも出演していたりするが、大目立ちはしなくても確実な役者である。
今回はシェイクスピアとは全く関係がないが、監督・脚本を手がけている。本人は出演していないものの、彼自身の物語でもあるからだ。ケネス・ブラナーはベルファスト出身で、まさにこの作品の主人公とも言える9歳の少年、バディは彼自身である。ベルファストを愛しながらも、その街を離れざるを得なくなる多感な少年。ブラナーは心からこの街を愛していた。
本人も「『ベルファスト』はとてもパーソナルな作品だ。私が愛した場所、愛した人たちの物語だ」と、また映画冒頭のシーンを振り返り「まさに私が記憶していたまま描かれている」と語っている。
映画は1969年8月15日に始まるが、実際この日の前日からベルファストの各所で暴動が起こっており、暴徒であったプロテスタントの青年が銃で撃たれ死亡。警察の装甲車はカトリックの住む集合住宅に機関銃を乱射し、壁を突き破った弾丸は9歳の少年の頭を打ち抜き、翌15日に病院で死亡している。忘れられるはずもない。
15th August 1969? My son Patrick only 9 half. My oldest son, why did you MURDERED him my son. I held him in my arms. His father has passed but the fight will go on. Justice And Truth will hurt the British Government when I'm gone. Family will fight on⚖⚖⚖ pic.twitter.com/2Pi1BKlAiO
— Paula De Paor (@pauladepaor66) August 12, 2021
あえて、アカデミー作品賞、本命
ある意味、地味に感じる人も多いと思うし、アカデミー賞作品賞は『ドライブ・マイ・カー』に獲ってほしいと願う私もいるのだが、今回のノミネートの中ではこの『ベルファスト』以外にはないと確信している。ノミネートされているどの作品も話題性はあるし、わかりやすくて華やかであるが、『ベルファスト』は他作品と比較しにくいくらい頭抜けている。
監督賞、助演女優賞、助演男優賞、脚本賞、主題歌賞、音響賞でもノミネートされているので、そのどれでもいいじゃんと思われるかもしれないが、作品賞はこれ以外にない。
パンデミックの最中に撮影されたため、ベルファストではごく一部しか撮影できなかったようだが、なんとイングランドのハンプシャーにある国際空港の滑走路の端を借り、ベルファストの通りを再現したという。どうして美術賞にもノミネートされなかったかがわからない。誰もそんなことを信じなかったのかもしれない。
北アイルランド紛争の1990年代
北アイルランド紛争はこの作品の舞台である1969年以降激しさを増し、イギリス帰属派であるユニオニストとアイルランドへの統合を望むナショナリストは互いに戦いをエスカレートさせ、際限のない襲撃、テロを繰り返し、終わりが見通せない状況にまで至った。
私は1990年から1997年までロンドンで仕事をしていたが、その間も北アイルランドはもとより、ロンドンでもIRAのテロが繰り返された。司馬遼太郎の「街道をゆく(愛蘭土紀行)」を読んでいたため、気持ちの上ではナショナリストにシンパシーを覚えていたが、小さな爆発物が発見されたり、大規模な爆破テロ、地下鉄への爆破予告で頻繁に電車が止まるのにうんざりしていたし、街に置いてあるゴミ箱に怯えたりすることに悲しみを覚えていた。
そんな中でバカバカしかったのは、IRAの政治部門であるシン・フェイン党の党首ジェリー・アダムズが声明を読み上げたり演説を行う映像では、サッチャーが「あんなならず者の声を聞かせるわけにはいかない」と彼の声を消し、同じ話を別人が吹き替えるというトンマなことがしばらく続いた。同僚と少し笑った。
ちなみに現在、北アイルランド議会では少数政党が乱立しているが、シン・フェイン党は常に第一党か第二党の議員を得ている。さらにちなみに、ラグビーの国際試合での「アイルランド代表」とは、北アイルランドを含むアイルランド島全体の代表のことである。
文:大倉眞一郎
『ベルファスト』は2022年3月25日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、渋谷シネクイントほか公開
『ベルファスト』
ベルファストで生まれ育ったバディ(ジュード・ヒル)は家族と友達に囲まれ、映画や音楽を楽しみ、充実した毎日を過ごす9歳の少年。たくさんの笑顔と愛に包まれる日常は彼にとって完璧な世界だった。しかし、1969年8月15日、バディの穏やかな世界は突然の暴動により悪夢へと変わってしまう。プロテスタントの暴徒が、街のカトリック住民への攻撃を始めたのだ。住民すべてが顔なじみで、まるで一つの家族のようだったベルファストは、この日を境に分断されていく。暴力と隣り合わせの日々のなか、バディと家族たちは故郷を離れるか否かの決断に迫られる――。
監督・脚本:ケネス・ブラナー
出演:カトリーナ・バルフ ジュディ・デンチ
ジェイミー・ドーナン キアラン・ハインズ
コリン・モーガン ジュード・ヒル
制作年: | 2021 |
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2022年3月25日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、渋谷シネクイントほか公開