凄惨極まる同性愛者差別
『ラ・マンチャの男』(1972年)に「事実は真実の敵なり」というセリフがある。ドキュメンタリー映画、というのはまさに事実から真実を導き出すメディアだと思う。事実は一つ。けれど真実は人の数だけある。監督は自らの真実を、事実を通して描いて見せる。それがドキュメンタリー映画である。
『チェチェンへようこそ -ゲイの粛清-』における「事実」は、ロシア連邦チェチェン共和国においても同性愛者は存在しており、迫害を受けているということ。では、「真実」とは。世界中どこだって同性の人を好きになることを禁止されたり、ただ同性の人を愛することによって差別や偏見を受けるべきではない、ということである。ましてや、同性愛者だからと暴力をふるわれたり命を奪われてはならない。しかし、公に認めていなくとも、チェチェンでは同性愛者が捕まえられ、拷問を受け、殺されているという事実が明らかになった。
日本を含む世界各地で同性愛者差別はある。それで苦しんでいる人々、不利益を被っている人々は、いる。残念ながら、いる、のである。けれど、命を脅かされる、しかも政府を挙げて実際に手を下される国となると、その国の数はだんだん減ってはいると思う。
カディロフ大統領「チェチェンにLGBTQは存在しない」
チェチェンはソビエト連邦の崩壊に伴って独立を試み、紛争が続いた国だ。同性愛を認めず「家の、一族の恥」とする、イスラム教の影響を受けた考え方がある。「名誉の殺人」が秘かに許されているのだという。民主主義的というよりも、もっと広く「人権」的に言って、それはいったいいつの話かと思う。今は2022年である。21世紀は「すばらしき未来社会」になると思っていたのに、21世紀も22年たって、こんなことが起こっているのが信じられない。ゲイは社会の敵、だって!?
「チェチェンでゲイの迫害が起きている」というニュースを目にしたドキュメンタリー監督デイヴィッド・フランスは、「そいつを黙らせろ:プーチンの極秘指令」の著者であるジャーナリスト、マーシャ・ゲッセンが書いた「チェチェンの粛清から逃れたゲイの男性」というニューヨーカー誌の記事を読み、調査に入ることを決意する。ゲッセンの記事は、この迫害を、政府組織による「血統浄化」作戦であり、チェチェンにおける、LGBTQの根絶を目指すトップダウンの政策であると指摘していた。
プーチンの息のかかった現“大統領”第三代首長のラムザン・カディロフ(父は暗殺された第一代首長のアフマド・カディロフ)は、海外メディアからLGBTQの迫害を追及され「そんなものはない。なぜならチェチェンにLGBTQは存在しないからだ」と言い放つ人物。プーチンとの近さに加え、45歳の若さと、肉体を誇示し、カリスマ的な人気を誇る首長である。このカディロフのもと、警察はもちろん、隣近所どころか家族・親族からもLGBTQの人々は狙われている。ばれれば密告され、拘束または誘拐、監禁され、拷問を受け、他のLGBTQの人の密告を強いられる。そして、たびたび”処刑”されその死は闇に葬られる。行方不明者の数は増えるばかりだという。
LGBTQの現状を世界へ伝える:サポート団体の苦闘
この状況に対して、ひそかに立ち上がった人たちがいる。彼らは迫害の対象になった人たちを救出し、かくまい、安全なところに脱出させる。ロシアLGBTネットワークや、モスクワLGBT+イニシアティブコミュニティセンターといった組織だ。が、チェチェン共和国から“国外”のロシアに脱出させれば安心かというと、そんなことはない。ロシアだって同性愛者を公的には認めたくない国の一つなのだし、なにせプーチンはカディロフの親分なのだから。
ゆえに、組織はLGBTQの人々をできるだけロシアの影響の及ばない地域へ、ヨーロッパの国々やカナダなどへ脱出させなければならない。ビザを申請し、亡命を申請し、難民を申請し……と、開きそうな扉はかたっぱしから試してみるという、気の長い逃亡生活になる。フランス監督はこのグループと共に行動し、隠しカメラで撮影するのである。最初は調査のためと入った監督だったが、そのまま撮影は開始され、18カ月間、彼らはチェチェンに出たり入ったりしながら撮影を続けた。
外国人スタッフとはいえ、ドキュメンタリーの撮影を受け入れ、同行を許すということは大きな危険が伴う行為だ。けれど、なぜ彼らは撮影に同意したのか。人権を盾に司法に訴え出るという正攻法では、独裁国家であるチェチェンの制度、というかほとんど慣習のようなLGBTQ迫害をやめさせることは難しい。唯一の手段が、現在の事態を世界の良識に訴え、国際的な圧力を政府にかけることだと考えたわけだ。
そのためには当事者の証言と証拠になる映像が必要だ。といって、グループの中に映画の専門家がいるわけではなく、国内で自分の身を危険にさらすような仕事を引き受ける映像作家やスタッフを探すわけにもいかない。フランス監督たちの申し出は、願ってないものだったのだと思う。
匿名性と信頼性を両立させた最新テクノロジー
しかし、ここに一つ大きな問題がある。脱出してきた人々の身元が完全に分からないようにしながら、かつ、その証言が信憑性のあるものだと、見る人に信じてもらえるようにするにはどうすればいいか、である。特徴のない部屋で、顔を隠して声を替えてのインタビューをするだけでは、彼らが映画を見ているあなたと同じ“普通の”人、ただ愛する人が同じ性の人であったり、生まれ持った性と自覚している性が違う人であったりするだけなのだ、と感じてもらえない。
フェイク映像、フェイクドキュメンタリーの横行する現在、それが被害者当人であるという証拠にはならない、ともいえる。隠れ家で、食事したりおしゃべりをしたり、将来を語ったり、悩んだり笑ったり……そんな暮らしをカメラに収めることで、彼らが生きていること、これからも「見ているあなたと同じように生きていくこと」を望んでいることを感じてほしい。それには、当事者が顔を隠したインタビューの時だけ登場するという方法はとりたくない。けれど、もちろん顔を出せば本人だけでなく、家族にも危険が迫るし、支援グループにも影響が及ぶ可能性がある。完全な匿名性を保つことと、ぼかしを入れて表情を見せず、個性を封じてしまわないことと、双方をかなえることはできないか……。フランス監督の悩みはここにあった。
ここで発想の転換。被害者たちの顔をCGで入れ替えればいいのでは!? それはフェイク・ニュース、アイコラ(アイドルじゃないけれど)の方法で、偽物を本物とすりかえる、勘違いさせて騙すための技術“ディープフェイク”である。が、これを使えば、本人ではない顔だが本人が暮らしている姿をそのままに見せることはできる。しかし、それはぼかしをかけるのとどう違うのか……。そして行き着いたのが、「ボディダブル」ならぬ「フェイスダブル」という方法だった。
本人たちと顔立ちが似た別人(作品の主旨を理解し、協力者として顔を提供してくれる人々)の顔を、映画で使うシーンの表情や角度にあわせて9台のカメラで撮影する。その「顔」映像を本編の当人たちの顔にはめて合成するのだが、ぴったりと継ぎ目がわからないように合成するのではなく、顔はそれとなくボケた映像になっていて、本当の顔との境はなじんではいるが薄く紗がかかったようになっている。最近の『スターウォーズ』作品のように、きっちり挿げ替えることが目的ではない。ちょうど、透明な仮面に目鼻が描かれたものをかぶっている感じで、もとの素顔はわからないが、そこにたしかに本人がいるとわかる、表情も見て取れる、そんな映像になっているのだ。声も同様に「ボイスダブル」で拭き替えた。そして、もう一つこの方法の利点がある。CGで付け加えた「仮面」は映像上で外すこともできるのである。
『チェチェンへようこそ ―ゲイの粛清―』は2021年度の第93回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされたが、同時に視覚効果部門の候補にもなった。これは史上初の出来事であった。このノミネートは、視覚効果技術的なことよりも作品内における「効果」として評価されたのであろう(見ていて思わず、「おおっ」っと声を出してしまったシーンがあった)。アカデミーの視覚効果部門は、最新技術の開発だけを見ているのではない。作品自体に対して、その効果を使ってどれだけ貢献しているか、新しさだけではなく作品の与える感動をその技術がいかに支えているか、というところも評価するのである。本作の視覚効果賞ノミネートは、まさにその点での評価だったと思う。
LGBTQ差別は反民主主義の一端
自分自身もカミングアウトしているフランス監督(かつてニューヨークポスト紙をそのために解雇された。その後、エイズ被害やLGBTQ支援をした活動家女性についてのドキュメンタリーで認められた)が今回取り上げたのは、チェチェンのLGBTQの迫害についての告発だった。が、LGBTQを迫害する国はおそらく女性や障碍者も迫害しているだろう。民主主義をないがしろにし、人権を踏みにじることをしているだろう。LGBTQ差別はその一端に過ぎないに違いない。監督がこのドキュメンタリーを作ろうと思った理由はそこにある。
そして、家族の理解を得て家族と共にチェチェンを脱出した登場人物の一人は、ここに気が付いた。これは自分だけの問題ではなく、LGBTQの問題だけではない。それを明らかに、国内の人に向けてもきちんと問いかけなければいけないのだ、と。そのためには、正当な手続きをとって、司法に訴え、それを国内外でニュースに取り上げてもらう必要がある、と彼は決意する。逮捕されて罰を受けるために法廷に引きずり出されるのではなく、原告として法廷に訴え出るのだ。負けることは目にみえていても、黙っていては、ただ何もなかったことになってしまうから……。支援者グループもその決意を受け入れる。当然、政府の追及はグループのメンバーにも及んでくる。
つぎに脱出しなければならないのは支援者たちだ。もちろん監督たちも作品を公開すれば、二度とチェチェンには入れない。それも覚悟の上である。映画にすることで、世界の多くの人にこの問題を知らせ、声をあげてもらうこと。そのために、彼らは文字通り“命を懸けて”いるのだ。
撮影期間中に支援者組織が脱出させたLGBTQの人々は151人。脱出を希望し、待機している人は40000人いるという。黙っていてはいけないことが、知らないではすまされないことが、世界にはこんなにもたくさんあるのである。
文:まつかわゆま
『チェチェンへようこそ ーゲイの粛清ー』は2022年2月26日(土)よりユーロスペース、シネ・ヌーヴォ、MOVIX堺、元町映画館ほか全国公開
『チェチェンへようこそ ーゲイの粛清ー』
作家としても受賞歴があり、アカデミー賞ノミネートの経歴を持つデイヴィッド・フランスが監督を務める(『HOW TO SURVIVE A PLAGUE(疫病を生き抜く)』[2012年]、『マーシャ・P・ジョンソンの生と死』[2017年]ほか)。彼は、本作『チェチェンへようこそ ーゲイの粛清ー』において、これまでも重要なテーマとしてきたLGBTQ問題を前面に打ち出し、ロシアのチェチェン共和国で現在起こっている人道的危機の驚くべき実態を伝える。
フランス監督は、チェチェン共和国当局によるLGBTQ迫害の犠牲者を救出する活動家たちの中に入り、ゲリラ撮影の手法で彼らが直面する困難と日々の地下活動を撮影した。チェチェンではゲイやトランスジェンダーであることは悪とされている。当局が関与する拘留、拷問、命の危険に瀕し、LGBTQの人々は息をひそめ恐怖に怯えて暮らしている。ロシアLGBTネットワークや、モスクワLGBT+イニシアティブコミュニティセンターの活動家グループに密着して撮影された映像は、LGBTQに対する恐ろしく残忍な虐待の様子を伝え、隠されてきた残虐行為と危機的状況を暴き出す。
制作年: | 2020 |
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監督: |
2022年2月26日(土)よりユーロスペース、シネ・ヌーヴォ、MOVIX堺、元町映画館ほか全国公開