監督と脚本を手がけた『ドライブ・マイ・カー』(2021年)が第74回カンヌ国際映画祭で脚本賞含む4冠に輝いた濱口竜介監督。最新作『偶然と想像』が第71回ベルリン国際映画祭で銀熊賞を獲得し、日本映画界を代表する存在となった。
濱口作品ではオリジナル脚本でも原作ものでも、あるとき登場人物が不意にいなくなる。監督が、いつも失恋や喪失を描くのは何故なのか。また、監督にとっての“良いカット”はどんなカットなのか。
「悪い人物というより、周りで悪いことが起きやすい人物」
―自分の気持ちに正直に人と向き合おうとしている登場人物たちと、いかにも嘘っぽいことを言いそうなキャラクターの構築とでは、演出も変わるのでしょうか? 例えば本作には、就職内定を取り消されたことで教授を逆恨みする男子学生が登場します。
これは正直、本当に難しいというか、今までの自分の描き方にあまりなかったキャラクターではあるので……。一般的に見ればむしろまともなのかもしれないんですが、嫌なことを言ったり、少し愚かだなと感じる。彼の視野の範囲内では、その行動はものすごく合理的なんだと考えるということですよね。その人なりの考え方の中では、めちゃめちゃ合理的な行動をしていると考える。そのことで書けるようになる、というか。
この人は自分が悪い人間だとは思っていなくて、多少うまく生きているくらいの自己認識。その認識に沿うような形で、彼の行動原理というものを想像してやる。でも、この人自身が悪いというよりは、周りで悪いことが起きやすい人物、みたいなものはずっと描きたいと思っていて。やっぱり現実にそういうことがとても多い気がするというか、その人自身に悪意がなかったとしても、本人が合理的だと思って取る行動によって、何かすごく悪いこと、嫌なことが生じるというのは現実によくあると思うんです。
そういったキャラクターを作りたいと思っても、実際に演じてもらうとなかなか大変で。でもフィルメックスの舞台挨拶の時に、甲斐(翔真)さんが「自分の中に、こういう嫌な奴の要素を見つけられた」と言ってくれたんです。甲斐さんとしては“嫌な奴”というよりも、そういった行動をする合理性というものを理解した、ということなんだと思うんですが、そういうふうに演じてくれたのはすごくありがたかった。このキャラクターを自分と近しいものとして理解してくれたというのは、役者としてすごく誠実なアプローチだし、すごく聡明な人だなと思いました。
―実際に日本社会でよく見かけるタイプの、他人や自分と向き合うよりも、いかに要領よく他を出し抜こうかというキャラクターだったので、彼(甲斐翔真が演じる佐々木)の存在を通して何かお伝えになりたいことがあるんだろうなと思いました。
そういう人がいるのが、まさに現実であり世界であって、そこから目を背けるべきではないというか。今までは、そういう人とあまり関わり合わないサークルの中の話が多かったんですが、サークルの中にそういう人がいるという話を書きたかったし、そこで起こることを書きたかった。こういうキャラクターを今後も出していきたいし、突き詰めてみたい気がしている、という感じです。
「物語を壊すかもしれないと思いながら、それを入れ込むことができるのが短編」
―次にどんな言葉が出てくるかとドキドキさせられて、本当に人間は得体が知れないなという印象を受けました。監督ご自身は“人間”というものを、どう捉えていらっしゃいますか。
どういう話にするか、ということは大枠で決まっているんですが、“箱書き”というあらすじみたいなものがあって、台詞を書きながら詳細を埋めていくところがあります。あるひとつの台詞を書いて、次にキャラクター、例えば芽衣子ならどう答えるか? というのは無限にあるけれど、先行する台詞によってある程度は限定されてもいるんですよね。この台詞に対して、芽衣子というキャラクターが一体どう答えるか。それを考えながら書くんですが、どうすれば“つまらなく”なく、かつキャラクターや状況に嘘なく進められるだろうか? と一言一言を考えるというところはあって。
時にはルートを間違えてしまうこともあります。こっちじゃなかったな、という台詞を書いてしまう。この方向で書いていくとゲームオーバーみたいな感じになるな、とか。そういうときは、間違えたと思ったところまで戻って台詞を書き進めていくと、ある時にその箱書きで“こういうことがあった”と書いていた設定までたどり着くことがあるので、そういうものが残って脚本になっていきます。
―今のお話に関連するかもしれませんが、全三話の短編からなる本作のなかで、第一話だけ2通りの結末があるのはなぜでしょうか。
いちばんわかりやすい話だと思うんですよね。それこそある種の入門編というか、このシリーズ全体に入ってきやすいように、という意図で書いています。ただ一方で、これから二話三話と続いていく中で、いちばん曖昧に終われる可能性があるというか、三話はやっぱりいちばんはっきり終わる。すごく強烈にくっきり終わるんですが、一話の段階だとそういう曖昧さを選ぶ余裕があるし、そっちのほうが面白い。
―「長編では“こんなこと怖くてできない”ということも短編ならできる」と仰っていましたが、今回その最大のチャレンジはどんなところでしたか。
どの話においても「こんなことってないだろう」という展開ができることですかね。それは“偶然”というテーマとすごく関わっているんですが、偶然を入れるのは、やっぱりすごく怖い。ストーリーテリングをする上で、観客の信頼感がすごく下がってしまうし、単純にご都合主義に見えてしまう。偶然を物事の、特に解決のところに持ってくると、そういう感情が起こりやすい。
それはすごく怖いことではあるんですが、物語を壊すかもしれないなと思いながら、それを入れ込むことができるのが短編。壊れたら壊れたでいいやと思いながらやって、その結果として大きな笑いが起きたりするので、それも不思議なことで。そんなに怖がる必要はないということなのか、たまたま何かがうまくいったのか、それは分からないんですけれど。
―濱口監督の作品はオリジナル脚本でも原作ものでも、突然相手に去られるとか、突然の心変わりといったものがテーマや背景にあることが多いと思います。失恋という以上に“無常”という言葉が浮かんでくるのですが、特にそういったテーマは意識して選ばれていらっしゃるのでしょうか。
無常とまで大きな言葉で考えているかは……でも、そういうものだと思います。自分の経験上そう思うし、少なくとも「言葉で言っているからといって100%そうではない」ということに関しては、まったくそういうものだと思っていて。「言葉で宣言したけれど、宣言したとおりの人間ではない」ということは、自分であれ他人であれ、意外と本当に180度変わるような形で起きるというか、盲点からぶん殴られたような、そういう感覚は自分自身も持っている。自分の中では内部にひたひたと何かが溜まっていて、ある時に溢れだすという感覚はいつも持っているし、物事がいつ壊れるか分からないという感覚も自然とあって、それがある程度反映されるというところはあると思います。
「リアリティよりもアクチュアリティに近い」
―物事が壊れる感覚というのを『なみのおと』(2011年)や『なみのこえ』(2013年)を撮られる前から感じていらっしゃったということですか。
そうだと思います。それは日常的な人間関係とか、そういうレベルが強いですけど、その前に阪神・淡路大震災もあったりはするので。営んでいる日常が何らかのレベルですぐに壊れてしまうものであるという感覚は、何がしか強く持っていると思います。それがまさに自分の身に起こることだからだとは思いますが、自分の中ではすごく自然な感覚ですね。
―しかし、それこそ事故や災厄ほど偶然性が高いものはないですよね。
そうですね。
―そうしたところから偶然性にこだわる、ということはありますか?
事故や災厄……そうですね。(考え込む)でも、それはあるんだと思います。偶然というのは自分のルーティンの外側からやってくるので、そのルーティンを壊す要素である。それが小さければ無視したりやり過ごしたりできるわけですが、ある時に偶然が積み重なったりすると、もう無視できないほど大きくなるということはあると思っています。
―監督の作品では本当に事故や災厄のように、登場人物がある日、突然心変わりします。最近『THE DEPTHS』(2010年)を拝見しましたが、そこでもやっぱり主人公は置いていかれてしまった。そうした喪失にとても興味を引かれたのですが、なぜいつも喪失を描かれるのでしょうか。
よくそう言われるんですが、喪失を描いているつもりはそんなにないんです。でも先ほど言われたような心変わりとか、突然何かが変わってしまうということは、すごく自覚的に描いているという感覚があります。喪失はその結果でしかないというか、定まったモードだとは思っていないし、喪失の状態からスコーンと抜けることもあったりする。急に何らかのきっかけがあって「ああ、落ち込んでたけど別に何でもなかった!」みたいな気持ちになることも全然ある。それはストーリーテリングとしてはより難しいと思うんですが、どちらかというと喪失は、その物事の変化のバリエーションのひとつだと思っています。
―先ほどテイク数のお話をされた時に“良く撮れたもの”をお選びになるとおっしゃいましたが、監督にとって、良く撮れたものの定義とは?
繰り返しではなく、過去に起きたことの反復ではなく、今ここで何かが起きた、という瞬間のようなものが“良く撮れた”ということですかね。たとえば第一話で古川さんと中島さんが向かい合っていて、中島さんが「吐きそう」と言っているところに、古川さんが向かってくるシーンがあります。そのとき中島さんが起き上がって、古川さんの顔が半分くらいしか見えない。顔の見えやすさという点では良く撮れているとは言えないかもしれないんですが、その場としてすごくふさわしい気がするというか、その見え方とかが今、この場で起きていることの正確な表現になっているような気がする。そういう時に、そのテイクが選ばれることになります。それは画面についてですが、もっと重要なのは“声”ですかね。今この場で、この二人が感情的にお互い影響し合っているという感じがする声。それがOKテイクになりやすいところかな。
―それはリアリティということでしょうか?
リアリティというより、アクチュアリティに近いですね。現実というよりは“現在”という感じでしょうか。
取材・文:遠藤京子
『偶然と想像』は2021年12月17日(金)よりBunkamuraル・シネマほか全国公開
『偶然と想像』
第一話「魔法(よりもっと不確か)」
撮影帰りのタクシーの中、モデルの芽衣子は、仲の良いヘアメイクのつぐみから、彼女が最近会った気になる男性との惚気話を聞かされる。つぐみが先に下車したあと、ひとり車内に残った芽衣子が運転手に告げた行き先は──。
第二話「扉は開けたままで」
作家で教授の瀬川は、出席日数の足りないゼミ生・佐々木の単位取得を認めず、佐々木の就職内定は取り消しに。逆恨みをした彼は、同級生の奈緒に色仕掛けの共謀をもちかけ、瀬川にスキャンダルを起こさせようとする。
第三話「もう一度」
高校の同窓会に参加するため仙台へやってきた夏子は、仙台駅のエスカレーターであやとすれ違う。お互いを見返し、あわてて駆け寄る夏子とあや。20年ぶりの再会に興奮を隠しきれず話し込むふたりの関係性に、やがて想像し得なかった変化が訪れる。
制作年: | 2021 |
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脚本: | |
出演: |
2021年12月17日(金)よりBunkamuraル・シネマほか全国公開