• BANGER!!! トップ
  • >
  • 映画
  • >
  • 早すぎた異形の傑作『MORE/モア』&『渚の果てにこの愛を』で1971年の“ファム・ファタール” ミムジー・ファーマー に溺れる

早すぎた異形の傑作『MORE/モア』&『渚の果てにこの愛を』で1971年の“ファム・ファタール” ミムジー・ファーマー に溺れる

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook
ライター:#セルジオ石熊
早すぎた異形の傑作『MORE/モア』&『渚の果てにこの愛を』で1971年の“ファム・ファタール” ミムジー・ファーマー に溺れる
©1969 FILMS DU LOSANGE/©1970 STUDIOCANAL - Fono Roma - Selenia Cinematografica S.R.L. All Rights Reserved.

万博とピンク・フロイドとミムジー・ファーマーと

東京オリンピックに続いて大阪万博が開かれる予定らしい。いったい、いつの話かと混乱する向きもあるだろうが、半世紀以上前、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会(EXPO’70)は、国際親善、科学技術や月の石の披露などはもちろん、ぼくらの大好きな映画や音楽にも大きな変革をもたらした意義あるイベントだったことはあまり知られていない。

EXPO’70参加各国のパビリオンでは、展示物だけではなく自国のミュージシャンを招いてコンサートを開いたり、最新映画を上映したりしたそうだ。カナダはブラス・ロックバンドのライトハウス、ブラジルはセルジオ・メンデス&ブラジル’66、アメリカはサミー・デイヴィス・Jrが歌っていた(ちなみに小学生だった私は、なぜかアルゼンチン館でタンゴのコンサートに行ったのを覚えている)。

そんな万博関連イベントのひとつとして開催されたのが「第1回日本国際映画祭」だった。各国から集められた20本の新作映画が1970年4月に連続上映されたのだ(東京国際映画祭はまだ存在しない)。選ばれたのは、世界で初めて性行為そのものがスクリーンに映し出された『私は好奇心の強い女』(1967年)、コスタ=ガヴラスの『Z氏』(1969年:のちに『Z』として公開)、フェデリコ・フェリーニの『サテリコン』(1969年)、フランソワ・トリュフォーの『野生の少年』(1969年)などなど。ゲストとしてフェリーニ、トリュフォー、ジャンヌ・モロー、クラウディア・カルディナーレらが来日したという豪華イベントだったようだ(もちろん小学生の私は行ってません)。

そのとき「日本国際映画祭」の上映ラインナップに並んだのが、前年のカンヌ映画祭で話題を呼んだ『MORE/モア』(1969年)だった。

『MORE/モア』
フランス版グランデ / 1969年 / プランフィルム / デザイン: ジャン・フラスティ
France Grande / 157cm × 116cm / 1969 / Planfilm / Design: Jean Fourastie

数十か所カット・黒マスク修正された『私は好奇心の強い女』ほどではないとはいえ、『モア』もヌードシーンが数か所修正され、ピンク・フロイドの音楽とともに日本初お目見えとなったのである。が、一般公開は両作品とも翌1971年まで待たねばならなかった。

ドイツ人の青年が放浪の旅の途中、パリでアメリカ娘(ミムジー・ファーマー)に出会い、誘われるままにスペインのイビザ島へ出かけるが、奔放な彼女に振り回され、そのうち青年は彼女とともにヘロインの世界にどっぷり浸っていく……。ドラッグの妖精か、“ファム・ファタール(宿命の女)”と呼ぶべきか、『モア』のミムジー・ファーマーはとにかく男を狂わせる。

スキニーで肉体的ボリュームはないのに、健康的な下半身の筋肉がなにか女豹のようにも見える。今でいう“ツンデレ”的な態度も男をメロメロにするのだろう。イビザの美しい海と空、ピンク・フロイドの幻想的な音楽、ドラッグ、セックス……この世の楽園が、初めてスクリーンを通じて世界に紹介されたのだ。

『MORE/モア』
アメリカ版ワンシート / 1970 / シネマV
USA 1 sheet/ 104cm × 69 cm / Cinema V

奇跡のように自然なミムジー・ファーマーの演技

さて、ミムジー・ファーマーは実際にシカゴ生まれのアメリカ人(母親はフランス系)で、ミスコンで認められて青春映画でデビュー。ヘンリー・フォンダ主演のハリウッド映画『スペンサーの山』(1963年)にも出演したが、ハリウッドの水が合わなかったようで、一時ショービジネスから離れ「中毒患者をLSDで治療」する医療施設で看護師をしていたという。その後、ロジャー・コーマンのB級バイク映画などに出演、ヨーロッパ各地のレース場にロケした『THE WILD RACERS(原題)』(1968年:日本未公開)の撮影中に、スペイン人カメラマンのネストール・アルメンドロスと知り合い、『モア』に出演することになった。

監督のバルベ・シュローデル(バーベット・シュローダー)は、映画雑誌「カイエ・ドゥ・シネマ」の編集やエリック・ロメール作品のプロデュースをしていたイラン人で、後には、ミムジーとは逆にハリウッドへ進出して『運命の逆転』(1990年)や『ルームメイト』(1992年)などを撮ることになる人物。アルメンドロスはロメールやフランソワ・トリュフォー作品のカメラを担当していた。

ハリウッド時代はウェーヴのかかったセミロング・ヘアだったミムジーは、この異色のヌーヴェル・ヴァーグ作品『モア』では、髪をバッサリ切ったベリーショート・スタイルで登場。太陽の下に肉体をさらけ出し、レズ・3P、全裸のラヴシーンもいとわなかった。ドラッグ接種場面を含め、ミムジーの演技は奇跡のように自然だ。

『MORE/モア』
日本版立看 / 1971年 / 現代映画
Japan 2-sheet Tatekan / 145cm × 51.5cm / Gendai Eiga Company

最初の日本上陸からしてカルト映画的なのだが、映画の内容がほとんどドラッグ使用の教科書のような展開(もちろん濫用すると大変なことになりますよ、と伝えてはいるが)なのには、大阪万博「第1回日本国際映画祭」の懐の深さを感じさせる。しかし、一般公開時には「白亜の孤島イビサに美しく燃え尽きた鮮烈の愛!」「自由な描写で現代の心の解放を衝く愛の問題作」と宣伝コピーに飾られ、ドラッグ問題は表に出さないよう配慮されていた。

洋画配給の老舗・東和の子会社であった現代映画は、ドラッグ問題はさておき、ミムジー・ファーマーをアイドル的に売り込もうと考えたようで、日本独自のピンナップポスターを制作し、映画館で販売した。こうした方針はこのころ、『バニシング・ポイント』『ウェスタン・ロック ザカライヤ』(共に1971年)など20世紀フォックス作品などでも行われていた。すべて英語表記で、まるで海外版ポスターのように見えるが、サイズは日本版半裁(B2)と同じ。インテリアとして映画ポスターを部屋に飾りたい若者をターゲットにしていたのだろう。シンプルなデザインは今見てもクールでカッコよく、海外のポスター・オークションでも高値を付けている。

『MORE/モア』
日本版半裁・販売用 / 1971年 / 現代映画 / デザイン: adex dept TOWA
Japan B2 Commercial/ 72.5cm × 51.5cm / 1971 / Gendai Eiga Company / Design: adex dept TOWA

さらに現代映画は、ミムジー・ファーマー主演のフランス映画『渚の果てにこの愛を』(1970年)も輸入、1971年の2月の『モア』に続いて、6月に連続公開することにした。こちらは「この愛があるかぎり、炎と燃えて身を灼きつくしたい」と情熱的な愛の物語であるかのように宣伝された。

ちなみに、この年の8月には『モア』の音楽を担当したプログレッシヴ・ロックの重鎮ピンク・フロイドが初来日公演を行っている。

『渚の果てにこの愛を』LA ROUTE DE SALINA
日本版半裁 / 1971年 / 現代映画
Japan B2 / 72.5cm × 51.5cm / 1971 / Gendai Eiga Company

主要キャスト=ハリウッド俳優による異色フレンチ・ミステリー『渚の果てにこの愛を』

監督ジョルジュ・ロートネルは、リノ・ヴァンチュラの『女王陛下のダイナマイト』(1966年)、ジャン・ギャバンの『パリ大捜査網』(1968年)……のちにはアラン・ドロンの『愛人関係』(1973年)、『チェイサー』(1978年)や、ジャン=ポール・ベルモンドの『警部』(1978年)、『プロフェッショナル』(1981年)を放つことになるフランスの売れっ子職人監督。が、ミムジー・ファーマーと、同じくアメリカ人のロバート・ウォーカー・Jrが主演、往年のハリウッド女優リタ・ヘイワースも出演した『渚の果てにこの愛を』は、彼の他作品とは一線を画した異色のミステリー・ドラマだった。

ヒッピーの男(ロバート・ウォーカー・Jr)が「サリーナ」へ向かう道の途中で一軒の一軒家=ガソリンスタンドにたどり着く。女主人(リタ・ヘイワース)は、彼を行方不明だった自分の息子だと思い込む。渡りに船と“息子”になりきって食事とベッドをいただいていると、後から現れた“妹”も彼を“兄”と信じて疑わず、全裸になって海水浴に誘う。次第にふたりは“兄妹”以上の関係になるが、“妹”には秘密があった……。

ロバート・ウォーカー・Jrは、ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951年)で交換殺人を持ちかける男を演じたことで知られる父ロバート・ウォーカーと、『慕情』(1955年)などで知られる大女優ジェニファー・ジョーンズの間に生まれた典型的なハリウッド2世俳優だ。両親の離婚もあって不幸な少年時代を送り、同じように父ヘンリーの女性関係に悩み傷ついていたピーター・フォンダとは互いに慰めあうような仲だった。

そして、ピーター・フォンダが製作・主演し(『モア』と同時に)カンヌ映画祭に出品された『イージー★ライダー』(1969年)にヒッピー・コミューンのリーダー役で出演していたのだ。ヘンリー・フォンダと共演した『スペンサーの山』(1963年)出演後にハリウッドを去ったミムジー・ファーマーとは何か奇縁を感じるが、なにはともあれ、ハリウッド俳優が主演する異色のフランス映画が誕生していた。

『渚の果てにこの愛を』LA ROUTE DE SALINA
フランス版グランデ / 1970年 / フィルムコロナ / デザイン: ジュイノー・ボルドゥージュ
France Grande / 157cm × 116cm / 1970 / Les Films Corona / Design: Jouineau Bourduge

謎の“妹”を演じるミムジー・ファーマーは、ここでもショートヘアで自由奔放に肉体を全開、“全男子画面に目が釘付け”の全裸海水浴を披露してくれる。一転して着衣の場面では、黒いニット帽や黒いドレスでミステリアスな過去も示唆するのだが、ジョルジュ・ロートネルの演出は犯罪ミステリー的なリアルさとは無縁で、真相が暴かれる場面もなんともシュール。まるですべてが白日夢のような非現実感に貫かれている。撮影されたのは大西洋に浮かぶスペイン領カナリア諸島。最近も爆発被害を出している火山島なので、溶岩の大地がまたなんとも言えない荒涼感を醸し出している。

そんなわけで、アメリカ版のポスターに至っては、ミムジー・ファーマーの肉体とシュールな作風を前面に出したデザインとなっていた。

『渚の果てにこの愛を』LA ROUTE DE SALINA
アメリカ版ハーフシート / 1971年 / アヴコ・エンバシー
USA Half-sheet / 52cm × 69 cm / 1971 / Avco Embassy

もちろん配給の現代映画は、『モア』に続いて、ミムジー・ファーマーのボーイッシュな魅力を全面的にアピールする販売用ポスターを制作した。今の時代にもそのまま(ブラッド・ピットのように)ジーンズのコマーシャルに使えそうなスタイリッシュな一枚。さらには、夏の公開に合わせた鮮やかなカラー版も用意された。

『渚の果てにこの愛を』LA ROUTE DE SALINA
日本版半裁・販売用A / 1971年 / 現代映画 / デザイン: adex dept TOWA
Japan B2 Commercial Style A / 72.5cm × 51.5cm / 1971 / Gendai Eiga Company / Design: adex dept TOWA

『渚の果てにこの愛を』LA ROUTE DE SALINA
日本版半裁・販売用B / 1971年 / 現代映画 / デザイン: adex dept TOWA
Japan B2 Commercial Style B / 72.5cm × 51.5cm / 1971 / Gendai Eiga Company / Design: adex dept TOWA

奇跡の復活の影にクエンティン・タランティーノあり

1971年の夏、日本でミムジー・ファーマーがアイドル的人気を博したとも、連続公開された映画が大ヒットしたという話も、残念ながら寡聞にして聞いたことがない。そして、『モア』はピンク・フロイドが初めて映画音楽を担当した映画として歴史に残り、『渚の果てにこの愛を』はほとんど誰も知らない幻の映画として“渚の果て”に消え去ったと思われていた……。

が、突如、21世紀になって『渚の果てにこの愛を』が復活を果たす。クエンティン・タランティーノが『キル・ビル Vol.2』(2004年)で、フランスの歌手クリストフと、イギリスやカナダ人によって構成されフランスで活躍していたロックバンド、クリニックが作った『渚の果てにこの愛を』の曲をサントラから借用して使用したのだ。当時、DVDなどは発売されていなかったが、タランティーノ本人によれば、フィルムを入手して自宅の映画館で鑑賞し、とても気に入ったとのことだ。クリフトフの手によるドラマチックな「遥かなるサリーナ(Sunny Road To Salina)」は、エンニオ・モリコーネのマカロニ名曲と並んでもそん色のないドラマティックさだった。

そして、日本初公開から半世紀を経て、『モア』と『渚の果てにこの愛を』が日本でリバイバル上映されることになった。映画ファンにとっては、オリンピックよりも、万国博よりも重要な復活劇だ。ミムジー・ファーマーのスレンダーなのに健康的で自然なエロスとロック・ミュージックに飾られた、時代の遥か先を行っていた異形の名作を堪能してほしい。

『MORE/モア』
日本版半裁 / 2021年 / コピアポア・フィルム / デザイン: 桜井雄一郎
Japan B2 / 72.5cm × 51.5cm / 2021 / Copiapoa Film / Design: Yuichiro Sakurai

さて、ミムジー・ファーマーは、その後もダリオ・アルジェントの『4匹の蝿』(1971年)、タヴィアーニ兄弟の名作『アロンサンファン/気高い兄弟』(1974年)、マカロニ・ホラー『炎のいけにえ』(1974年)、『ルチオ・フルチの恐怖!黒猫』(1980年)などに出演、イタリア映画界で活躍を続けた。実は『渚の果てにこの愛を』出演直後にイタリアの脚本家ヴィンツィンツォ・チェラミと結婚、女の子を出産していたのだ。

そのころ、夫チェラミは、『アヴェ・マリアのガンマン』(1969年)や『盲目ガンマン』(1971年)などのマカロニ・ウエスタンの脚本を書いていたが、のちにロベルト・ベニーニと出会って『ライフ・イズ・ビューティフル』(1998年)で米アカデミー脚本賞にノミネートされるまでになる。が、そのころにはミムジーはチェラミと離婚、1991年に女優業を引退し、『ジェヴォーダンの獣』(2001年)などの造形美術を担当したフランシス・ポワティエと再婚し、夫の仕事を手伝って『チャーリーとチョコレート工場』(2005年)、『ライラの冒険 黄金の羅針盤』(2007年)、『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉』(2011年)、『タイタンの逆襲』(2012年)、『ガーディアン・オブ・ザ・ギャラクシー』(2014年)などに造形担当として参加しているという。

ハリウッドを去って、『モア』をきっかけにヨーロッパ映画に根を下ろしたミムジー・ファーマーは、いつの間にか、ハリウッド映画に回帰していたのだ。

『渚の果てにこの愛を』LA ROUTE DE SALINA
日本版半裁 / 2021年 / コピアポア・フィルム / デザイン: 桜井雄一郎
Japan B2 / 72.5cm × 51.5cm / 2021 / Copiapoa Film / Design: Yuichiro Sakurai

文:セルジオ石熊

協力:「ロック映画ポスター・ヴィンテージ・コレクション ポスター・アートで見るロックスターの肖像」(井上由一編/DU BOOKS)

『MORE/モア』『渚の果てにこの愛を』は2021年11月5日(金)より新宿シネマカリテほか全国順次公開

https://twitter.com/mimsyfarmer_jp/status/1438427444965371907

Share On
  • Twitter
  • LINE
  • Facebook