ひねくれた作家性
『地獄でなぜ悪い』(2013年)はコメディ映画だ。園子温は、狂気とバイオレンスの作家であるが、過去作品の中にポツポツとコメディ作品が見られる。
同じような作品群の様相をした映画監督たちがいる。石井岳龍、スタンリー・キューブリック、コーエン兄弟、クエンティン・タランティーノ、テリー・ギリアムらである。バイオレンスの部分をホラーに置き換えると、サム・ライミやティム・バートンらも当てはまるように思う。
彼らの作品の肌触りや監督としての存在感も、どこか共通する部分があるように感じる。彼らの共通する部分は、その作家性がパラドックスに満ちている点にある。「白いから黒い、黒いから白い」と主張するかのような、ひねくれた作家性が、バイオレンスやホラーにコメディが混ざる、その作品群に表れているように感じる。
コメディと、バイオレンスやホラーの親和性は高い。それらは裏表の関係だ。見る角度によって、どちらにもなり得る。コメディとは価値の転換であり、バイオレンスやホラーによる「死の軽視」はフィクションの世界において、見方によって恐怖が笑いに変わる。特にスプラッタシーンは、人間の首が簡単に飛んだりしてバカバカしさが際立つ。そこでは、良識が易々と踏みにじられる。
しかし、人間が簡単に死ぬことは確固たる事実だ。そうした身も蓋もないものが提示された時、どこか痛快な気分になって笑ってしまう。ダイナミックな価値の反転を表現できるからこそ、ひねくれ者の映画監督はバイオレンスやホラーと共に、コメディー作品を嗜好するのだと思う。
園子温作品は、役者がとても魅力的に見える
『地獄でなぜ悪い』には、園子温のねじれた作家性がストレートに表れている。なんといってもタイトルがパラドックスそのものだ。「地獄こそ天国である」と言っているのだから。
この作品のあらすじは、映画マニアの青年がひょんなことから、やくざ組織の組員をスタッフに映画を撮ることになる、というものだ(どこか往年の角川映画を思わせる)。映画マニアの青年は、1作でいいから後世に残る映画を撮って死にたいと思っている。そして、組同士の本物の出入りをカメラに収めるチャンスに恵まれる。「人が本気で殺し合うシーン(地獄)を撮れるなんて、映画人にとって天国だ」というのが、作品タイトルの意味である。
あらすじと先述したが、本作は群像劇でありストーリーらしいストーリーは存在しない。各シーンの登場人物が張っていった伏線を回収することで、物語は成立する。その回収の仕方が強引で笑える。そのバカバカしさは必見だ。
コメディは脱線しなければ成立しないので、ストーリーラインに縛られない群像劇はコメディの作話に適していると思う。この群像劇の、シーンをコラージュしたような構造を生かして、強引に過去の名作映画のオマージュが多数、作中に入れ込まれている。
冒頭から『仁義なき戦い』(1973年)のパロディから始まる。その他『シャイニング』(1980年)、『カジノ』(1995年)『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989年)などなど。『キル・ビル』(2003年)も明らかに意識されている。なので、二階堂ふみ演じる日本刀を振り回すミツコは、ユマ・サーマンだと思い込んで見ていたが、服装が違う。もしかして、ミツコの元ネタは『ウォーキング・デッド』(2010年~)のミショーンか? ミツコという名前もそこからもじった?
もっと言うなら、星野源演ずる橋本が噴水のように吹き出した吐瀉物は『スタンド・バイ・ミー』(1986年)のパロディ? まさかと思うが、移動カメラマンの“みき”が常にローラースケートを履いているのは『アメリカン・グラフィティ』(1973年)? 考えすぎかもしれない。でも、そんな風に見るのも楽しい。
園子温作品は、役者がとても魅力的に見える。本作品も、二階堂ふみがめちゃくちゃ可愛い。長谷川博己がやたら面白い。堤真一がなんだかすごくかっこいい、そしてやっぱり面白い。國村隼はいつでもすごい顔だ。そして、気取れば気取るほど面白い(パラドックス!)。園子温作品の役者たちが魅力的に見える理由はわからないが、役者がなんだか楽しそうに演じているように見える。園子温の最も優れた特性は、そこにあるのかもしれない。
文:椎名基樹
『地獄でなぜ悪い』はCS映画専門チャンネル ムービープラス「特集:園子温」で2021年9~10月放送