お笑い芸人、絵本作家、オンラインサロンのオーナーなど、幅広い分野で活躍するキングコング・西野亮廣さん。芸能界という枠を軽々と飛び越え多彩なコンテンツを送り出していますが、映画への想いは意外と知られていないのでは?(インタビュー全3回)
日常に“作りもの”を乗せると生活が鮮やかになる
https://www.youtube.com/watch?v=P-Z3ZyaY40w
たぶん一番最初に観たのは、テレビの金曜ロードショーとかだと思うんですよ。『シザーハンズ』(1990年)自体は子どもの時からよく観てて。でも、手がハサミのバケモノだっていう印象が強くて、ストーリーをそこまで覚えてなかったんですよ。ハタチくらいになって「そういえば『シザーハンズ』ってどういう話だったかなぁ」とか思ってDVD借りに行って観返してみたら、めちゃくちゃ面白いなと思って。
冒頭の、おばあちゃんと孫のシーンが記憶からごっそり抜けてたんですよ。『シザーハンズ』は何の物語かっていうと、孫からの「雪って何で降るの?」っていう質問があって、それに対するアンサーで「雪っていうのはね……」っていう流れがあって。それがもう見事だなって。そういう映画だって知ったのが大人になってからなんですけど、それからの方が、やっぱ衝撃でしたね。
日常にすでにあるものに作り話を乗っけると、例えば雪が降った時に「ああ、この雪は……」って考えられるわけじゃないですか。盗めるとこは盗みたいなとは思いました。あとジョニー・デップがカッコいいんで、好きですね。
これはティム・バートンの自叙伝みたいな感じなんですかね? 要は好きな人には近寄れなくて、遠くからエンタメで届けるっていう。しかもハサミ(カット)だから、映画監督がやっぱかかってるのかなぁ……どうだろうなぁ。でもまあ自分のことを描いてるんだろうなとは思って、それはすごい色っぽかったですね。そういうの好きです。
―西野さんが手がけている絵本との共通点も感じます。
確かに! 自分も結構、嫌われてるんで(笑)。近寄れないからエンタメで届けるしかないっていうのは、ちょっと……分かりますね。まあ、一方的に好きだったっていうことですよ。僕が本当にティム・バートン監督が好きだっていう。
―どこか世界に違和感を感じながら生きている主人公、それは西野さんのテーマでもありますか?
絵本を作ったりだとか、お笑いやったりだとか、ビジネス書を書いたりだとか、そういうようなお仕事をやったりするんですけど。基本的に決めているのは「弱者を応援する」っていう、そこは強いですね。
―西野さんの中でこの作品から“もらったもの”があれば教えてください。
それは“作り話”ですね、すでにあるものに作り話を乗せるっていう。雪にストーリーを乗せると、やっぱ日常生活がちょっと鮮やかになるじゃないですか、それはむちゃくちゃいいなと思いましたね。
―“作りもの”の魅力ですね。
そうですね、ストーリーを乗せるっていうのは楽しいですね。例えば、時計とかって毎日見るじゃないですか。時計にストーリーを乗っけると毎日見るものがすごく楽しくなるじゃないですか。ああいうのはすごくいいなあと思いました。
―最初にお笑いの世界に興味を持ちはじめたのは?
小学校2年生の時ですね。テレビで「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」が面白いことをやっていて、翌日学校に行って「昨日こんなことやってたよ」って喋ったら、むちゃくちゃウケて。僕がウケたんじゃないんですけど、「ありゃ、気持ちいい」って思って。その時に好きな子から話しかけてもらえたんですよ。「あれ、これいいなあ」と思って。「お笑いってこんな感じなの?」っていう、そこが衝撃で。そっからずるずるずるっと今まで、なんかやっちゃってますね。
キンコン西野の少年時代https://t.co/NhA399r08I
— キンコン西野の『西野亮廣エンタメ研究所』 (@nishinosalon) December 21, 2020
―駆け出し時代は?
「1年で売れなかったら辞める」っていう約束で田舎から出てきたんで。父ちゃんと母ちゃんと約束して、1年で結果を出さなきゃいけないと。養成所に入って1年でっていうのは、つまり卒業する前に、ということです。結構キツめの条件だったので、もう死に物狂いでやりました。日本中のお笑い芸人の中で、お笑いにかけた時間は自分が一番多かっただろうなと。なので、1年目で漫才の賞とかワッて獲って、運良く世に出させてもらえるようになったんで、なんとか親には「ね、売れたでしょ」って言えて、一応継続してるっていう状態ですね。
お笑いに関しては日本のほうが50年くらい遅れてる
確か25歳くらいだったと思うんですよ。なんの流れだったか、三谷幸喜さんから連絡いただいて「西野さん『お熱いのがお好き』観ましたか? そりゃもう絶対に観てください!」って言われて、観たらめっちゃくちゃ面白かったんです。ずっとポップでキャッチーで、登場人物がカッコよくて、ヒロインが可愛くて。「これか、映画は!」っていう感じでしたね。何年前の映画ですか? 1959年、えー!?
やっぱ面白いな、スゴいなと思いました。よく日本のお笑い芸人とかが「日本は笑いのレベルが進んでいて、海外は低い」みたいなことを言うんですけど、そんなことはなくて。もう、とっくの昔に面白いことはやっていて、さらに商業的にするためにもうちょっと間口を広げてるのが、今のあっちの映画で。お笑いに関しては、もうだいぶ進んでるなと思いましたけどね。“すれ違い・勘違い・伏線回収”みたいなことは、この時点で仕上がっているんで。
だからビリー・ワイルダーより前のエルンスト・ルビッチ、もうここで仕上がってるんですよ。いま僕たちが面白がってるような、“すれ違い・勘違い・伏線回収”的なお笑いは、そこで仕上がっていたので、だいぶ……50年くらい(日本のほうが)遅れてんなと思いましたけどね。三谷さんはビリー・ワイルダーがお好きだと思うんですけど、そりゃあお好きだろうなっていう感じはしましたね。
―三谷さんがオススメして下さったきっかけは?
あの人、本当に勉強熱心で。全く面識なかったんですよ、僕。確かタモリさんが昔やられてたテレビ番組で共演させていただいて、その時に僕の楽屋前をやたら三谷さんがウロウロしてたんですよ。だから「三谷幸喜さんて廊下をウロウロする人だな」っていうイメージがあって(笑)。ああいう方って楽屋の奥の方にズンと座って、なかなか出てこないイメージだったんですけど、やたらウロウロしてるなーと。
最初に挨拶させていただいて楽屋に戻ったんですけど、まだ楽屋前をウロウロされてて(笑)。「なんですか?」って言ったら、たしか自分の舞台を観にきてくれていたか、自分の舞台のDVDを買って観てくださってたんですよ。「実は観たんです。あれ、面白いっすね」みたいな。「えー! 三谷さんが観てくれたの!?」って、そこですごい盛り上がって。それが「三谷さん、次に僕これ考えてて……」っていうやりとりをするようになったきっかけ。
そこから三谷さんが新作を出されるたびに舞台を観に行って、こっちがなんか観て欲しいものがあったら三谷さんに来てもらってとか。そういう中で「やっぱ『お熱いのがお好き』は押さえといた方がいいですよ」って言われて。おっしゃる通りだな、と思いましたよ。
ポップでキャッチーな“赤レンジャー”をちゃんとやりたい
―そんなオススメの中で、後の西野さんに影響を与えたものは?
これ一つだけというのは決してないんですけど、やっぱりポップとかキャッチーみたいなものを背負ってるほうがカッコいいなと思いました。
それまでは、どっちかって言うと日本のお笑いが「教室ではしゃいでる奴よりも、教室ではしゃいでいる奴をいじるクラスの後ろのほうの奴」で、主導権を握っていたんです。こっちはこっちですごいなとは思うんですけど、いやいや、なんかポップでキャッチーでカラフルなものを背負う奴、それでいてすごいクオリティーを保つ奴って、カッコいいなと思って。つまり“赤レンジャー”をちゃんとやるみたいな、そこを逃げずにやりたいと思いました。
人を感動させるときに一番簡単なのが、主人公に感情移入させて最後に病気で殺すっていう(笑)。だけど、やっぱ僕はハッピーエンドでカラッとしたものが好きですね。それでいて感動させたら「すげえな、こいつの才能」ってなる。この当時に観た映画とか舞台で、そういうのを選んで観に行ってたっていうのはあるんですけど、やっぱそっちがカッコいいなって思うようになりましたね。それ結構デカかったと思います。25歳の時に「これをやるぞ!」って舵をきったのは、それがきっかけでもあるので。
SNSの時代は、ポップでキャッチーなものをやってた方がつつかれる。要は議論の対象になるんで。「あいつ何なの? 意識高い系じゃね?」みたいに言われて(笑)。ああ、こっちの方が広がりがあるな~とか思って……まあ結果的にそうなったんですけど。でも25歳の時に、そこでバッと舵をきっておいて良かったなと思うことはありますね。