第93回アカデミー賞、最大のサプライズ
2021年の第93回アカデミー賞授賞式で、多くの人が一瞬、その名前を耳にして呆然となった。授賞式のラストに発表された、主演男優賞である。
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『ファーザー』のアンソニー・ホプキンスの受賞は第93回での最大のサプライズとなったが、授賞式の直後から、他の候補者から明らかに抜きん出たホプキンスの演技力への賞賛が相次ぐことになる。そうなのだ、下馬評を覆すほどの、名優の最高レベルの実力が発揮されたのが『ファーザー』だったのだ。
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29年前、登場シーンが極端に短かったにもかかわらず、狂気のインパクトで作品全体を支配し、主演男優賞に輝いた『羊たちの沈黙』以来、2度目の栄誉となる。
俳優にとって大きなチャレンジであり評価にもつながる役柄
アンソニー・ホプキンスが『ファーザー』で演じた主人公は、役名もアンソニー。劇中で語られる生年月日も、ホプキンス本人とまったく同じ1937年12月31日である。オスカー受賞時、ホプキンスは83歳だが、『ファーザー』を撮影している時は81歳だったわけで、役のアンソニーの年齢と一致している。本人と役の設定を同じにしたのは、監督のフロリアン・ゼレールが、ホプキンスに絶対にこの役を演じてもらいたかったからだろう。
『ファーザー』は、2012年にパリで初演されたゼレールの戯曲「Le Pere 父」の映画化。これまで世界45カ国以上で上演されたといわれる名作だ。日本では橋爪功、ブロードウェイでは、同アカデミー賞で『ファーザー』と作品賞を争った『シカゴ7裁判』で狡猾な裁判長を演じたフランク・ランジェラと、錚々たる名優が主演を張っている。監督のゼレールが、映画版に世界最高レベルの演技を必要としたのも納得だ。
オリジナルの主人公の役名は、アンドレ。ちなみにゼレールの母国フランスでは、すでに2015年に『Floride』というタイトルで映画化されている。この時の主演はジャン・ロシュフォール。テリー・ギリアム監督作でドン・キホーテを演じ、撮影中に降板した、映画ファンにはおなじみのあの名優だ。この時の役名もクロードと変更されており、2017年に亡くなったロシュフォールの遺作となってしまった。
『ファーザー』の81歳のアンソニーは、認知症によって記憶が曖昧になり、自分の目の前で起こっていることが正確に把握できなくなっていく。この認知症という役どころは、これまでもアカデミー賞で受賞やノミネートの常連でもあった。最近では『アリスのままで』(2014年)のジュリアン・ムーアが主演女優賞を受賞。『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』(2006年)のジュリー・クリスティ、『アイリス』(2001年)のジュディ・デンチも主演女優賞にノミネートされた。日本では『明日の記憶』(2005年)の渡辺謙が日本アカデミー賞最優秀主演男優賞に輝いた。役作りも含め、俳優にとってチャレンジが大きく、それゆえに実力が試され、評価につながる設定なのだ。
こうした過去の認知症の役に比べても、『ファーザー』のアンソニー・ホプキンスは明らかに別次元だ。これまで評価された俳優たちの演技は、認知症で自分がわからなくなっていく困惑や、切実な運命との苦闘がメインで、もちろんそれはそれで迫真なのだが、今回のホプキンスはそこにプラスして、傲慢なまでの自己主張や軽妙なユーモアさえも盛り込んで、さながら名演技のバリエーションの宝庫。しかも、その流れに違和感がない。思わずダンスの腕前を披露してしまう、お茶目なシーンがあったかと思いきや、クライマックスでは魔物レベルの感情的演技をみせる。この変幻自在な名優の姿に、アカデミー会員が素直にノックアウトされ、投票につながったのだろう。
「私のメソッドは、セリフをこと細かく覚える。それだけだ」
以前、別の作品でアンソニー・ホプキンスに、毎回、役にどうアプローチするのかを聞いたことがある。彼はこんな答えを返してきた。
私のメソッドは、セリフをこと細かく覚える。それだけだ。ひとつのセリフを250回、読むんだ。250は私のマジックナンバーで、セリフや言葉で脳を刺激していく感覚だ。これは絵を描くプロセスに似ている。ニスを塗ったり、磨きをかけたり……。セリフを繰り返していくうちに、的確な方法が見つかるわけで、つまり演技とは、シンプルな作業だ。
ただ感情を込めることが名演技ではない。演技とはテクニックと訓練の集大成だと、この名優の言葉が実感させてくれる。
そして『ファーザー』が、これまでの作品と大きく異なるのは、認知症の主人公が何を見て、どう感じているのかを、そのまま再現している点。目の前にいる知人を、初対面の相手だと信じきってしまう。訪問者を、今ここにいないはずの家族だと勘違いしてしまう。認知症の人の感覚どおりに映像とセリフが展開していくので、観ているこちらも、何が現実なのかわからずに混乱し、当事者の恐怖さえも体感してしまうのだ。スリラーやホラーを観ている錯覚さえおぼえるのが、『ファーザー』の映画としての醍醐味でもある。
いま自分はどこにいるのか? ロンドンで一人暮らしをしているはずが、ここは誰の家なのか? そうしたアンソニーの感覚をも観客が共有してしまうのは、室内のインテリアが、彼の感覚に合わせるように、シーンごとに微妙に色や配置を変えているから。つまり同じ部屋が、アンソニーおよび観客に、複数の違った場所である印象を与える細かい工夫がなされている。『ファーザー』はアカデミー賞で美術賞にノミネートされたが、この部門で評価されがちなデザインの美しさや独創性ではなく、美術=プロダクション・デザインの「さりげない演出」が認められたということ。まさにプロフェッショナルの高度の仕事であった。
29年前のハンニバル・レクター博士とは、まったく別物の奇跡レベルの演技と、セリフや演出、美術まで隅々に張り巡らされた映画的チャレンジが見事に結びつき、『ファーザー』は予想を超えた、心ざわめく体験を届けてくれるのだ。
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文:斉藤博昭
『ファーザー』は2021年5月14日(金)より全国公開
『ファーザー』
ロンドンで独り暮らしを送る81歳のアンソニーは記憶が薄れ始めていたが、娘のアンが手配する介護人を拒否していた。そんな中、アンから新しい恋人とパリで暮らすと告げられショックを受ける。だが、それが事実なら、アンソニーの自宅に突然現れ、アンと結婚して10年以上になると語る、この見知らぬ男は誰だ? なぜ彼はここが自分とアンの家だと主張するのか? ひょっとして財産を奪う気か? そして、アンソニーのもう一人の娘、最愛のルーシーはどこに消えたのか? 現実と幻想の境界が崩れていく中、最後にアンソニーがたどり着いた〈真実〉とは――?
制作年: | 2020 |
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監督: | |
出演: |
2021年5月14日(金)より全国公開