ぶっとんだSF映画よりもさらに極端な世界
ネイチャー・ドキュメンタリーの優れた作品は少なくない。2021年の第92回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞に輝いたNetflixオリジナル作品『オクトパスの神秘:海の賢者は語る』も一見、そのカテゴリーに入る一本だ。
南アフリカの突端の海底に広がる藻場、そこに生息するタコをはじめとするさまざまな生物の生態、目を見張る光景や自然の美しさを捉えた映像は、それだけで十分に見応えがある。作品のなかで解説される通り、まさに「ぶっとんだSF映画よりもさらに極端な世界」なのだ。
だが、それらはこの驚くべき映画の魅力の一部に過ぎない。本作が掛け値なしに奇跡的と言えるのは、これまで観たこともない“タコと人間の交流”を描いたものだからである。否、もっと言えばこれは、れっきとしたタコと人間の純愛物語だ。365日、一日も欠かさず海に潜り続けたクレイグ・フォスターは、タコに恋をし、「彼女(her)」との最期の別れを回想するときには涙を浮かべ、言葉を詰まらせる。
我々に何かを訴えかけてくるようなタコの大きな瞳
映画監督として、これまでアフリカでドキュメンタリーを撮ってきたフォスターはあるとき、生きる意味を見失い、カメラを持てなくなったという。そんな状況から脱するために、彼は子供のときによく潜っていた海に、再び潜るようになる。だが、その流儀は独特。タンクも背負わず、ウェットスーツも着ない。海の環境と一体化するように、生身で潜る。
そんな彼があるときひょっこり出会うのが、海底に沈んだ不思議なオブジェ。それはなんと、貝殻を身体に纏ったタコだった。そこからフォスターはこの奇妙な生き物に取り憑かれ、毎日カメラを持ってタコに会いに出かける。
本作はそんな彼自身が撮った映像と、彼とともに潜るようになった水中カメラマンの映像を用い、ドキュメンタリー監督のジェームズ・リードとピッパ・エアリックが制作している。映画を観ながら我々も、フォスターとともにこの驚異的な生き物の生態を発見することになる。海底に置いたカメラにしずしずと近寄り、その長い足の吸盤でレンズをいじって探る姿。フォスターとの対面では、まさに『E.T.』(1982年)の宇宙人よろしく、彼の指に吸盤を絡み付ける。
初めはアメーバのように不気味に見えたタコが、だんだんと心を持った生き物に見えてくるから不思議だ。大写しになったその瞳は、まるで我々に何かを語りかけているように見える。
あなたはもう、タコが食べられなくなるかもしれない
タコと一緒に泳ぐフォスターは、「この世にこれ以上の素晴らしい快感はない」と語る。またあるときにはタコを見失い、何日も必死に「タコの気持ちになって」、その居場所を突き止める。こうなるともう完全に、恋に落ちた男のオブセッションである。
他人から見れば狂気と紙一重のような思い入れ。だが、そんな人々こそが奇跡をもたらし、誰も達成したことのないような物事を成し遂げるということは、これまで歴史で何度も証明されてきたことではないだろうか。タコがフォスターに<抱きつく>瞬間を観れば、誰しもがひたすら感動せずにはいられないはずだ。
残念ながら軟体動物の寿命は短い。タコは1年から長くて3年と言われ、フォスターとタコの蜜月にもやがて終わりが訪れる。彼が目の当たりにするその臨終は、自然界の掟通り、厳しく無情である。
カメラの前で、遠い目をしながら回想するフォスターはしかし、タコとの出会いによって自然界の驚異を知り、人間もまた「ヴィジター」ではなく、この世界の一部であることを教えられた、と言う。そしてタコを知れば知るほど、我々と同じような存在であることがわかった、とも。
本作を観たら、もうあなたはタコが食べられなくなるかもしれない。それほどの覚醒を与えられる作品である。
文:佐藤久理子
『オクトパスの神秘:海の賢者は語る』はNetflixで独占配信中
『オクトパスの神秘:海の賢者は語る』
南アフリカの海中に生息するタコに魅せられた映像作家。タコとのふれ合いを通して特別なきずなを築く中、海の神秘に重ねて人生を見つめ直す。
制作年: | 2020 |
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監督: | |
出演: |