我が母校の野球部が誇る七本槍打線!
突然だが、そもそも私が戦国時代を好きになった理由の一つに、私の地元が滋賀県北部の長浜市というところで、戦国時代ゆかりの場所がかなりあるからなのだ。
現在の滋賀県長浜市はもともと戦国時代は浅井家の領土で、領主の浅井長政は有名だろう。そこに織田信長の妹、お市の方が嫁いで来て、茶々、初、お江の三姉妹を産んだ城、小谷城がある。この小谷城址には小学生の頃、お弁当に水筒、おやつを持って遠足で登ったこともある。
そんな小谷城城主・長政も義兄の信長を裏切り、姉川の合戦が起きたこの場所も地元の川。その後、小谷城は織田軍の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に攻め立てられ落城。その功績でこの地を与えられた秀吉は琵琶湖湖岸に新しい城を築城し、その際に“今浜”だった地名を、信長への感謝の気持ちを込めて“長”の字をもらい“長浜”に改名。昭和になっての再建築ではあるが、今もJR長浜駅のすぐ前に長浜城がそびえ立っている。ここも小学校の写生会で石垣の下から、天守閣をキャンパスに描いたこともある。
滋賀県に築かれた🏯城郭は1,300を超えるといわれています。
— 滋賀・びわ湖 観光情報【公式】 (@siga_biwako) April 20, 2020
その中から、🏯安土城や長浜城、彦根城などおなじみの城や、近年発掘され、その全貌が明らかになりつつある城など厳選した🏯50城を紹介します。
詳細は↓【近江の城50選】https://t.co/Jsyks4yijG#滋賀県 #びわ湖 #城 #安土城 #彦根城 pic.twitter.com/KZR3ewtpsx
さらに私の実家の裏山には、信長亡き後の織田家の覇権争いで柴田勝家と羽柴秀吉が戦った、賤ヶ岳の戦いの古戦場跡もある。ここにも地元の子供会で何度も登って、ジュースやお菓子を食べたり、レクリエーションで宝探しなんかもやったりしたものだ。
この賤ヶ岳の戦いの古戦場が近くにあるおかげで、私の母校、滋賀県立伊香高校の野球部にはあだ名がついていた。何度か甲子園出場経験もある我が野球部、その名も「七本槍打線」! 当時は徳島池田高校のやまびこ打線や、駒大岩見沢のヒグマ打線、銚子商業の黒潮打線とあだ名が色々あって、ウチの野球部は七本槍打線だった。この「七本槍」とは賤ヶ岳の戦いの時、秀吉軍側の活躍した加藤清正や福島正則などの七人の武将に付けられた呼び名で、そこで地元の我が母校の野球部にも七本槍打線と付けられたのだが、私はそこの8番バッター……。あだ名の打線に入っていないのだ。
ピッチャーは投球に専念するから9番でも良いが、私は野手でバッティングでも活躍したい、だが打線のあだ名からあぶれている。誰がこんなあだ名をつけたのかは知らないが、毎年1人ないしは2人が悲しい思いをするのだ。しかし活躍武将のあだ名には入れない8番9番、雑兵、足軽でも構わない、我が母校の下位バッターに、私は毎年エールを送りたい。
33年ぶりの甲子園出場を目指す21世紀枠候補の #伊香 。お父さんが当時の野球部員だった選手やマネージャーもいます。先天性の脳性まひで車椅子生活を送るマネージャーの山本陸君を野球部に誘ったのはエースの隼瀬一樹君。集合写真の撮影では車椅子を押して一緒に移動する姿が見られました。(馬) pic.twitter.com/edtyVNqxC9
— 【公式】輝け甲子園の星 編集部 (@koshienno_hoshi) January 13, 2020
紀里谷和明のエキセントリック時代劇『GOEMON』
さて、そんな思い出話から、今回のおすすめ戦国映画は紀里谷和明監督の『GOEMON』(2008年)だ。この映画は紀里谷監督の『CASSHERN』(2004年)に次ぐ2作目で、物語は完全オリジナル。――戦国末期、織田信長亡き後、天下の覇権を豊臣秀吉が収めている時代。そこで天下の大泥棒・石川五右衛門が暴れ回るアクションアドベンチャー作品となっている。
俳優陣も豪華な顔ぶれで、主役の石川五右衛門を江口洋介さん。ライバルの霧隠才蔵には大沢たかおさん。織田信長は歌舞伎役者の中村芝翫さん。石田三成を要潤さん、千利休は平幹二朗さん、豊臣秀吉には奥田瑛二さんと、かなり重厚なメンバー。ただ俳優陣だけでなく、この映画を初めて観て驚いたのがCGの凄さ。秀吉の大坂城や信長の安土城が、まるで西洋のお城の様で壮大だったり、城下の町は台湾の観光地、九份の街のような雰囲気に描かれている。
さらに驚いたのが、この映画には誰一人、ちょんまげの髪型の人が出てこない。皆それぞれ長髪だったり、坊主頭だったり、現代の髪型なのだ。他にも広末涼子さん演じる茶々に至っては、ドレスを身にまとっていたり、信長から足軽に至るまで、全員身につけている甲冑が西洋の南蛮具足だったりと、今まで観てきた戦国映画には無かった表現。これこそが時代劇と言う枠にとらわれない、紀里谷ワールドなのだろう。
この紀里谷ワールドの、オリジナルストーリーがまた面白い。大泥棒の石川五右衛門が幼い頃に戦さで両親や家族を殺され、逃げる途中で織田信長に助けられる。そこから信長の元で忍者としての修行をしていくのだが、その修行の師匠が服部半蔵だったり、一緒に修行にはげむ同門が霧隠才蔵だったり、五右衛門にくっついて離れない子分に猿飛佐助と、奇想天外な物語。この忍者達のアクションシーンも見ごたえがあるが、五右衛門と才蔵の友情や信長の姪・茶々との淡い恋心、秀吉と家康、狐と狸の腹の探り合いなど、見どころ満載である。
ちょっと残念!?「忍者」の地味な真実
そこで今回は“忍者”の雑学を披露しよう。そもそも当時は、忍者とは呼んでいなかった。地域によって呼び方が違っており、三重県の伊賀忍者は伊賀者、伊賀の隣の甲賀の忍者を甲賀者、越後の上杉や関東の北条の元で活動していた忍者を軒猿(のきざる)、他にも関東では乱波(らっぱ)、甲斐(山梨県)より西では透波(すっぱ)、武田信玄が組織した隠密集団を三ツ者(みつもの)などなど、いろんな呼び方をされていたのだ。
さらに余談の余談になるが、新聞記者などが使う「すっぱ抜く」という言葉は、忍者の“すっぱ”から来ている。さらに、忍者といえば黒装束が代表的なファッションスタイルだが、あんな格好をした忍者は一人もいなかった。なぜなら、あんな姿で敵に見つかったら一発で忍者だとバレてしまうし、大事な諜報活動に支障をきたしてしまうのだ。当時の忍者たちは周りにバレないように、商人や僧侶の姿で他国を歩いたり、時には農民の装いで隠密行動をとったのだ。
また、忍者の代表的な武器といえば手裏剣だが、あんな武器は誰も持っていなかった。手裏剣のような独特の形の武器を持っているのがバレたら、これまた忍者と簡単に見破られてしまう。武器はせいぜい太めのクギを何本か持ち歩いていたぐらいなのだ。これなら間違って捕まっても忍者とは思われない。そもそも忍者の主な仕事は、敵の情報を集め、主人や雇い主に報告するのがメインの仕事なわけで、必ず帰らなければならない。なので、刀を振り回して敵とド派手に戦うことなども有り得ない。ただし逃げる時に、どうしても避けられない場合は菱の実を乾燥させた、撒菱(マキビシ)なんかを地面に転がして逃げた程度なのだ。
現代の忍者像は、歌舞伎や映画の世界で作られた形なわけで、さらに海外でも人気となった忍者の本当の姿をバラしてしまうのは忍びないが、実際はそうなのである。しかし、映画の中で派手に飛び回る忍者の姿には、世界中の人が魅了されるカッコよさがあるのも事実。そんな忍者好きの方におすすめの映画『GOEMON』、是非ともこのゴールデンウィークにご覧になっては如何でしょう。
文:桐畑トール(ほたるゲンジ)
『GOEMON』はHuluほか配信中