ロンドンと築地駅の距離感
1995年、私はロンドンで仕事をしていた。1月17日の朝、出社するとこれまでに見たことのない大量のファックスが機械からこぼれ出していて、どれも日本の新聞記事を拡大したものだった。記事よりも先に写真に目が行くが、どこでなにが起こったのかわからないほど混乱してしまい、事態を把握できない。テレビをつけると日本からの映像が繰り返し流されており、ただ言葉を失った。阪神淡路大震災は写真1枚で全世界を震撼させた。
しかし、正直なことを言えば、同じ世界に存在しているのに、実際こんなことがあり得るのだろうか、と不思議な距離感を感じたことも事実だった。
その2ヶ月後の3月20日、やはり出社すると同じ量のファックスが届いていた。ただ、どうも内容がよくわからない。勤めていた電通の本社ビルに一番近い地下鉄日比谷線築地駅で何かが起きて、救急車、警察車両が道を塞いでおり、大変なことが起きたことだけ理解したが、正体がしれない。
テレビをつけてもやはり築地駅周辺が映されていて、アナウンサーがテロの可能性がある、と繰り返すのみ。朝のラッシュアワーに起きたということは、同じ会社で働く人間にも被害が及んだのだろうか、とぼんやり考えた。しかし、どうにもリアリティがない。のちに知ったが、サリンが撒かれた電車の中では築地駅前からずっと騒ぎになっていたものの、築地駅に到着してから運行を停止したため、たまたま集中的に築地駅での救助活動が映されていた、ということだった。
電車が築地駅に到着したのが8時10分、電通の出社時間は9時30分。そのため電通社員に被害は出ていない、と聞いていたのだが、それは間違いだった。やはりロンドンと築地の距離は遠い。とんでもない災害も事件も自分のこととして受け止めるには、時間、情報が必要なのである。
「被害者」である監督と「加害者」である荒木広報部長
映画『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』の監督、さかはらあつし氏は京都大学卒業後、電通に入社し、事件当日どの駅でのことだかはわからないが、サリン事件に遭遇し、被害者となった。神経に後遺症が残り、いまでもPTSDに苦しんでいる。事件の翌年、電通を退社しアメリカでMBA(経営学修士)を取得し、その後、映画制作に関わるようになる。日本での映画製作の途中、後遺症により飛行機の中で意識不明となり、また腰椎圧迫骨折に苦しみながら、この作品を作ることを決意したという。
地下鉄サリン事件後マスコミ対応を担っていたのが、広報副部長だった荒木浩氏。それについては森達也監督が、教団施設内側から撮ったドキュメンタリー『A』(1998年)があるが、教団とマスコミの「常識」について我々の認識が逆転するような「錯覚」を覚えた。荒木氏は監督のさかはらあつし氏と同じ時期に京都大学に在籍しており、こんな偶然があるのかと思ったが、同じ丹波出身でもある。
あれから20年以上経っても、たまにテレビのニュースで公安調査庁がAleph(麻原を尊師とする)、ひかりの輪(脱麻原を主張する)の2団体を観察処分の対象としていることを取り上げた程度で、何が変わって何が変わらないのか、状況を知りたければ自ら取材するか、入信するしかない。
すでに13名に死刑が執行され、何事もなかったかのような世の中であるが、実際に被害者は苦しみながら生活を続けている。かつてオウム真理教の広報副部長だった荒木氏は、現在Alephの広報部長として出家生活を続けている。監督さかはらあつし氏は1年間の交渉の末、2015年に荒木氏を追うドキュメンタリーを撮ることになる。それがこの作品となる。
荒木氏はAlephの施設内部を案内し、空中浮揚も条件が合えば可能だと笑いながら話す。あの『A』で見せた、少年の面影を残しながら理路整然と教団の見解を淡々と語っていた荒木氏は、当然のことながら相応の歳の取り方で中年のおじさんとなり、監督と二人で時に笑顔で、時に顔をこわばらせながら8日間にわたり、東京から同窓の京都大学を訪れ、故郷の丹波まで旅を続けながら、語り合う。
さかはら氏は繰り返し荒木氏の麻原への帰依について、自分のような被害者に対する謝罪の意思はないのかと問い詰める。答えは禅問答のようにどこか取り止めもなく宙に消えて行くが、必ずしも荒木氏が逃げ切ろうとしているようには見えない。
オウム真理教は終わらない
荒木氏の罪とはなんであろうか。事件後も教団に残り、麻原を尊師と讃えるAlephで勧誘活動を続けていることか。あるいは広報部長という立場にありながら、事件の被害者に公式の謝罪ができないことか。荒木氏は作品中で「子供の頃に物欲が消えた」「麻原の京都大学での講演を聞いたのち、さらに物事への執着が消えた」と語る。
私は特定の宗教を信仰していないごく一般的な日本人であるが、世界中の宗教施設を回りながら、信仰とは何かと考え続けている。仏教において、基本的に一切は無であるから、我欲を捨てよ、とされているが、宗派によっては欲望の肯定もありえるし、東南アジアの敬虔な仏教徒が多数のある国の寺では「博打に勝てますように」と書かれた皿に金をうまく入れることができれば念願が叶う、なんてのも目撃したことがある。なんと人間的であることよ、と笑ったりする。そう、人間は多面性を持つ。ある時に全てのことが虚しく感じられて、この生に意味はあるのかと自問する人もいる。
スペインで親しくしていた、エピキュリアンとも感じられた広告会社の社長に「神を信じるか」と尋ねた際、「もし神がいなかったらこの世に意味はない」という躊躇いない返事にたじろいたことがある。
生命を支えるはずの「本能」を失ってしまった人間は弱い。人間を考える上でオウム真理教の起こした事件は、私たちに対する哲学的な問いかけであった可能性があるが、その本質に近づくことなく、「観察処分」という国家による監視の是非でしか語られなくなってしまった。カルトは私たちの身近に存在しえる。紙一重の中で生きていることを知る重要性を自覚しておくべきであろう。
映画の話からずいぶん飛び出してしまったが、この作品は監督が考えているよりも大きな問題を提起しているように思えてならない。事件から20年後の2015年3月20日、荒木氏はさかはら氏と一緒に地下鉄霞ヶ関駅で行われた慰霊式に訪れ、献花したのち取材陣に囲まれて「犠牲者への謝罪は?」と問われる。どう答えたのか、ご自身で確かめていただけないだろうか。
文:大倉眞一郎
『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』は2021年3月20日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』
1995年、オウム真理教が引き起こし日本中を震撼させた地下鉄サリン事件。通勤途中で被害にあった本作監督さかはらあつしは、事件から20年の時を経てAleph(オウム真理教の後続団体)の広報部長・荒木浩と対峙する。さかはらと荒木は、ともに所縁の地を訪ねる旅に出て対話を繰り返す。凄惨な事件後もなお信者でありつづける心のありようとは何か。人を救うのではなく苦しめる宗教とは?監督は友人を諭すように、荒木に接し、その心の内に迫ろうとする。事件により人生を狂わされ、未だに精神的・肉体的な苦しみを抱える被害者。その「被害者」が「加害者」にカメラを向ける。ここでは「客観性」や「中立性」を掲げる「ドキュメンタリーの常識」は通用しない。この対峙の先に見える「真実」とは?
制作年: | 2020 |
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2021年3月20日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開