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観客に“体感”を促す「スピルバーグの撮影術」とは?『レディ・プレイヤー1』でも発動した<視点>と<構図>のテクニック

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ライター:#松崎健夫
観客に“体感”を促す「スピルバーグの撮影術」とは?『レディ・プレイヤー1』でも発動した<視点>と<構図>のテクニック
『レディ・プレイヤー1』© Warner Bros. Entertainment Inc

観客に<見たことのない世界>を提示してきたスティーヴン・スピルバーグ

バーチャル・リアリティは<仮想現実>と訳され、コンピューター技術や電子ネットワークによって構築される仮想環境から疑似的に受ける感覚のことを指す。スティーヴン・スピルバーグ監督の『レディ・プレイヤー1』(2018年)では<仮想現実>がモチーフになっているが、舞台となる2045年の未来は荒廃し、現実逃避のために人々が興じているものだと描かれていた。この映画で重要なのは、主人公が<仮想現実>の世界へと足を踏み入れてゆく描写にある。「実人生」=「現実」と「仮想の人生」=「非現実」の境界を示すことで、観客もまた登場人物たちと同様に、実人生とは異なる<見たことのない世界>を体感することになるからだ。

これまでも、スティーヴン・スピルバーグ監督は、観客にとって<見たことのない世界>を提示してきた。例えば、『未知との遭遇』(1977年)における巨大母船、『ジュラシック・パーク』(1993年)における恐竜たち、或いは『プライベート・ライアン』(1998年)におけるノルマンディー上陸作戦の惨状。これらの場面では、登場人物たちが一様に「驚愕」する姿が描かれているのだが、その映像表現にはある共通点を指摘できる。それは、登場人物たちの驚きを<視点><構図>によって、観客と共有させているという点。一見すると、特撮やVFXなどの映像技術によって驚きを表現しているように思えるのだが、スピルバーグ作品でより重要なのは、撮影時に構築する<構図>の方にあるのだ。

例えば、「見上げる」という行為。『ジュラシック・パーク』では、登場人物たちが初めて恐竜を目撃することになるブラキオサウルスの出現場面が好例に挙げられる。カメラはまず、サム・ニール演じるグラント博士とローラ・ダーン演じるエリーが「驚愕」する表情をとらえる。そして、高さ15メートルほどあるブラキオサウルスを彼らが「見上げる」と、カメラは恐竜の全体像をとらえるため引きの画になり、足元から長い首を経て、頭までを垂直方向にティルトアップする。まさに、カメラの動き自体で「見上げる」という行為を実践しているのだ。このカット割りが導く<視点>と<構図>は、作品を映画館の大きなスクリーンで鑑賞することを前提としている。劇場公開時に映画館で鑑賞された方なら、登場人物たちが恐竜を見上げたのと同じように、自分自身もスクリーンを見上げたという感覚を思い出すのではないか。

この「見上げる」という行為は、スピルバーグが監督した『宇宙戦争』(2005年)でも描かれている。巨大な三脚歩行のトライポッドに遭遇したトム・クルーズは、頭上を「見上げる」。その<視点>によってトライポッドの大きさを実感し、恐怖を覚えるという姿を実践。この場面でも重要な点は、登場人物と観客との感覚を共有させる<構図>にある。観客の視界を覆うほど大きな映画館のスクリーン。そのどこを見せるのかという演出を、<視点誘導>を施すことによって実践させているのだ。<構図>が導く登場人物と観客との視覚的感覚の共有は、結果的に<見たことのない世界>に対する「驚愕」をも導いている。

https://www.youtube.com/watch?v=6CkoNFUpoo8

スピルバーグは<構図>を固定化することで<早撮り>の監督になった

『ジュラシック・パーク』や『宇宙戦争』では、カメラのティルトアップという「縦」の動きによって驚きを表現していたが、『太陽の帝国』(1987年)では、カメラを水平方向に動かす“パンニング”という「横」の動きによって驚きを表現している。例えば、クリスチャン・ベイル演じる主人公の少年が、収容所で零戦の襲撃を受ける場面。カメラは高台に登って零戦を目撃する少年の姿をとらえ、零戦がスクリーンの下手から上手へと移動する姿を「横」の動きによって撮影している。この時、観客も映画館のスクリーンを下手から上手へと<視点>を動かすことになる。カメラによる<視点誘導>によって、観客は主人公の少年と同じ感覚で、零戦を目撃することになるのだ。もちろんこれは、演出として意図されたものだ。

さらに重要なのは、スティーヴン・スピルバーグ監督作品におけるあらゆるショットが「被写体を画面の中心にとらえる」という<構図>になっている点にある。カメラが固定されたフィックスの映像であれ、カメラがレールや手持ちによって移動するような映像であれ、映すべき被写体が常に画面の中心に配置されているのだ。この<構図>にはいくつかの利点がある。まず、観客にとって「見やすい」という点。被写体が常に画面の中心にあるので、映画館の大きなスクリーンのどこを見て良いのかを迷うことがないのだ。

『レディ・プレイヤー1』© Warner Bros. Entertainment Inc

ふたつ目は、撮影監督にとっても「迷わない」という点。スティーヴン・スピルバーグ監督は、撮影日数を大幅に超過した『ジョーズ』(1975年)や『1941』(1979年)の反省から、現場での指示が早くなり、撮影自体も早くなったと言われている。いわゆる<早撮り>の監督であると認識されていることは、周知の通り。この<早撮り>を実践させるのが、「被写体を画面の中心にとらえる」<構図>なのだというのが筆者の見立てなのだ。スピルバーグは現場で演出する際、撮影監督が「被写体を画面の中心にとらえる」というルールさえ遵守すれば、あとは問わないとしているきらいがある。そうすることで自身は演出に専念でき、現場での時間を節約できるという利点が生まれるからだ。

『シンドラーのリスト』(1993年)以降、スピルバーグは撮影監督としてヤヌス・カミンスキーと組んでいるが、彼の参加によってこの<構図>は顕著になっている。スピルバーグの映画は、映像が美しい。そう感じさせるのは、陰影を強調するなど、カミンスキーの撮影美学が伴っているからだ。「被写体を画面の中心にとらえる」という<構図>のルールは、<早撮り>の由縁にもなっているわけだが、このことはスピルバーグ作品が人気を博した時代の映画ビジネスとも深い関係にある。

https://www.youtube.com/watch?v=puV5x4Z_DDU

スピルバーグの<構図>は家庭でのテレビ鑑賞にも対応! 80年代のスタンダードに

1980年代、映画はビデオの登場によって家庭でも自由に観ることが可能になった。この時代、『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984年)のようなスティーヴン・スピルバーグ監督作だけでなく、『グレムリン』(1984年)や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)、『グーニーズ』(1985年)など製作総指揮を担当した<スピルバーグ印>と呼ばれる作品群もヒットを記録していた。これらの作品を「テレビで観た」という映画ファンも少なくないだろう。ところが、テレビで作品を鑑賞するには、一つだけ難点があったのだ。それは<スクリーンサイズ>の違いだった。

当時、ハリウッドで製作された多くの映画は、ビスタサイズやシネマスコープサイズなど長方形な横長の画面で上映されていた。しかし、この時代のテレビは正方形に近いスタンダードサイズの画面。そのためテレビ放送、或いはビデオで再生した際には、画面の両端が切れてしまうという現象が起こったのだ(画面の上下に黒みを入れるという<レターボックス>のようなトリミング方法については、技術的事例の意図が異なるのでここでは問わない)。

例えば、二人の男女が見つめ合うというショット。画面の下手に男性、画面の上手に女性を配置するような<構図>にした場合、横長のビスタサイズやシネマスコープサイズで撮影するとテレビ画面では映像の両端が切れてしまうため、何も映っていない空間だけが画面に映し出されるという奇妙な状態になってしまうのだ。この現象を回避するために当時のハリウッド映画で実践されたのが、ビスタサイズやシネマスコープサイズ、スタンダードサイズ、いずれのサイズでも観ることが可能になる<構図>で撮影するという手法だった。

その手法を知る好例が、リチャード・ドナー監督の『リーサル・ウェポン2/炎の約束』(1989年)にある。この作品は、ド派手なカーチェイスで映画の幕が開ける。カーチェイスは4車線を使って行われているのだが、当時のテレビ画面には2車線分しか映っていない。もちろん、映像の両端が切れてしまうからである。しかし、この映画では2車線内でカーチェイスが行われているため、映画館で観てもテレビで観ても同じ印象のカーチェイス場面になっているのだ。

ちなみにメイキング映像を見ると、撮影時のモニターにはテレビ画面で映し出される範囲がテープでマスキングされていることを確認できる。ビデオやケーブルテレビ、衛星放送などの2次利用による収益が、映画ビジネスにとって大きなパーセンテージを占めるようになった時代。どんなメディアにも対応できるための対策だったのである。

これらの経緯から、1980年代以降のスティーヴン・スピルバーグ監督作品が多くの観客から支持を得たという由縁には、「被写体を画面の中心にとらえる」という観客にとって見やすい<構図>の実践、そして、どんなメディアにも対応できる<構図>の実践という時代の要請も関係しているのではないかと思わせるのである。もちろん、当時の観客にとってスピルバーグの作品が「どれも面白い映画だった」ということは大前提にある。

スピルバーグの<仮想現実>への憧れを感じさせる『レディ・プレイヤー1』

<仮想現実>を描いた『レディ・プレイヤー1』は、ともすれば観客が「どこに視点を向けて良いのかわからない」という状況に陥りかねないほど、画面内の情報量が膨大だった。しかし映像をよく見ると、やはり「被写体を画面の中心にとらえる」というルールに準じていることを窺わせる。『レディ・プレイヤー1』が優れているのは、観客にとって<見たことのない世界>を提示することを前提にしながら、<構図>による<視点誘導>を実践し、同時に、隠れキャラを探すというイースターエッグ的な楽しみをも施している点にある。『レディ・プレイヤー1』には、若手映画監督が手掛けたかのような<仮想現実>に対する憧れさえ感じさせる。撮影当時72歳だったスピルバーグの映画的な感性が、今なお磨かれ続けているという事実には驚くばかりだ。

『レディ・プレイヤー1』© Warner Bros. Entertainment Inc

また、コロナ禍で公開が延期となっている最新作『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021年公開予定)では、ミュージカル映画に初挑戦。スピルバーグは老いてもなお、新たなジャンルを開拓しているのだ。そもそも、ロバート・ワイズが監督したオリジナル版の『ウエスト・サイド物語』(1961年)は、移動撮影が話題となった作品。街角で踊る俳優たちの姿を、カメラで縦横無尽にとらえた映像が驚きをもって迎えられたという経緯がある。観客の<見たことのない世界>に対する驚きを、スピルバーグがミュージカル映画においても<構図>によって実践させているであろうことは、疑う余地も無い。

『レディ・プレイヤー1』© Warner Bros. Entertainment Inc

文:松崎健夫

『レディ・プレイヤー1』および特集番組「森崎ウィンの“俺は「レディ・プレイヤー1」で行く!”」はCS映画専門チャンネル ムービープラスで2021年2月放送

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『レディ・プレイヤー1』

西暦2045年。カオスと荒廃に沈む世界で、人々は“オアシス”に救いを求めた。天才ジェームズ・ハリデーが創ったそのVRワールドでは、誰もがなりたいものになれるのだ。ある日「オアシスの3つの謎を解いた者に遺産のすべてを譲る」というハリデーの遺言が発表される。

制作年: 2018
監督:
出演: