イラン映画のコペルニクス的転回
いつかこんな時が来る予感はあった。一般的なイラン映画ファンはアッバス・キアロスタミ監督やアスガー・ファルハディ監督のような、詩的、哲学的作品、あるいはドキュメンタリータッチで観る者を惑わすような展開の読めないものが好きでご覧になっているはず。逆に言えば、そんな面倒なのは観たくないという娯楽映画一直線の方々のほとんどは、「イラン映画? 何それ」ということになっておりました。もったいなかった。
知らなければ知らないで終わってしまうのであるが、人様のことながらそんな人生でいいのかい、と声をかけたくなっていた私。その私が胸を張って「これでどうだ、つまらなかったら金返す」とまで言い切れる映画が2作同時公開される。「イラン2大傑作犯罪映画」という惹句に間違いではないにしろ、強い違和感を覚えるのであるが、その方がお客さんが入るのであれば、まあ、それでもよし。
“娯楽性”という表現が何を意味するのかわからないが、観ているこちらに解釈をさせないスピードでグイグイと引っ張っていってくれる、ということだとすると、まさにそれ。「どうなる、この後?」で絶対に徹夜明けの人間も寝させない面白さ。世界中で“犯罪映画”は溢れかえっているが、2020年を振り返ってもこれ以上に興奮する作品があったか? ない。
『ジャスト6.5 闘いの証』の疾走
冒頭から刑事がドアを蹴破る、蹴破る、蹴破る。一体いくつドアがあるんだ、という造りの麻薬密売人のアジトを急襲。若い男が隙をついて逃走。複雑に入り組んだ街の路地を走る。逃げる。刑事も追うが、若さには勝てない。逃げる男は金網のフェンスを越え、一瞬これで逃げ果せたと安心したことであろう。しかし、降り立った場所は……。
発砲も、カーチェイスもない。ただ、走る、逃げる、追うのシーンの末に「オイオイオイオイ」と思わず声を上げてしまう5分程のプロローグ。
麻薬捜査の指揮をとる刑事は昇進したいことを隠さない。刑事同士の複雑な人間関係も早い段階で明らかにされる。麻薬捜査は世界中どこでも同じように、末端の密売人を逮捕しても、根本を断つことができないかぎり堂々巡りとなる。しかし、てっぺんの人間を追い詰めるにしても、手がかりは下から積み上げていくしかない。麻薬に溺れている人間はスラムにいくらでもいる。イランのスラムはコンクリートパイプ。数百人のホームレスが生活している。乱暴なのはわかっているが、全員逮捕。そこから着実にその上、その上を狙うのである。と、2時間13分の映画の中で、ここまで13分。ここから本格的に、この『ジャスト6.5』は走り始める。
似たような設定は、ベニチオ・デル・トロの『ボーダーライン」シリーズ(2015年)か(似てないかも)。あっちはなんでもやりたい放題だが、こちらはそんな予算も発想もない。ただ、人を追うことで全編に緊張の糸を張り巡らす。
これまでのイラン映画に娯楽性を加え、社会性も通奏低音でしっかり残しているこの作品は、日本で大ヒットしているアニメ映画の興行収入を抜いてもおかしくないのだが、なぜか東京では1館だけでしか公開されない。おかしな世の中である。
イランではコメディ作品を除き、史上最大のヒットとなったそうである。2019年の第32回東京国際映画祭コンペティション部門で最優秀監督賞と最優秀主演男優賞を受賞している。
謎解き『ウォーデン 消えた死刑囚』
こちらはイスラム革命以前、1966年の刑務所が舞台。新空港建設のため立ち退くこととなり、囚人全員を新しい刑務所へ移送する仕事に自分の出世をかけている刑務所長。囚人を並ばせて、人を数えて、バスに乗せて、それで終わりの簡単な仕事のはず。だったのに電話が鳴る。「一人いなくなりました」。
冗談で済む話ではない。もともといなかったことにもできない。しかし、慌てない。周りには何もないのだから逃げ場はない。刑務所内に潜んでいるのは間違いない。そう高を括っていたが、いくら探しても見つからない。そこへ所長が好感を抱いている美人ソーシャル・ワーカーが登場。あーだこーだ言い始める。いるのは嬉しいけど、今じゃない。「お願いですから助けてください」と、消えた死刑囚の親子まで押しかけてきた。
所長は何かがおかしいと感じているが、その微妙な違和感がどうしても消えない。ヒリヒリするのだが、所長の抱えている違和感が共有できて微妙に面白くて楽しい。
イラン映画第3世代
『ジャスト6.5 闘いの証』のサイード・ルスタイ監督はまだ31歳。『ウォーデン 消えた死刑囚』のニマ・ジャウィディ監督は40歳。どちらも監督2作目。本当は第何世代なのかわからないが、確実に何か別のものを背負った若い監督が登場してきた。キアロスタミ監督が亡くなっても、次々と新たな才能を発掘してきたイラン映画界だが、この2作品を観て、潮流が変わりつつあることを感じる。
ペルシャ文学が底流にあるこれまでの詩的、叙情的、哲学的な作品はこれからも作られ、常に私たちに刺激を与え続けてくれるはずだが、トランプ後の世界に娯楽性、社会性を加えた作品で「参りました」と言わせて欲しい。
文:大倉眞一郎
『ジャスト6.5 闘いの証』『ウォーデン 消えた死刑囚』は2020年1月16日(土)より新宿K’s cinemaほか全国順次公開
『ジャスト6.5 闘いの証』『ウォーデン 消えた死刑囚』
『ジャスト6.5 闘いの証』
街にあふれる薬物依存者の多くはホームレス。薬物撲滅警察特別チームの一員であるサマドは、薬物売人の頂点に立つ大物ナセル・ハグザドを追っている。あの手この手の操作を繰り返したあげく、ついにナセルを彼のペントハウスに追い詰め刑務所に収監する。しかしそれは、ほんの始まりに過ぎなかった……。
『ウォーデン 消えた死刑囚』
1966年、イスラム革命前のイラン南部にある刑務所。新空港建設のため立ち退くことになり、所長のヤヘド少佐は、囚人たちを新しい刑務所へ移送する任務を背負うことになった。無事任務を果たせば大きな出世を約束されていて、それは彼にとって難しいことではないと思われた。ところが一人の死刑囚が行方不明との報告が届く……。
制作年: | 2019 |
---|---|
監督: | |
出演: |
2020年1月16日(土)より新宿K's cinemaほか全国順次公開