※このコラムには、映画の結末について触れている記述があります。予めご了承の上でお読み下さい。
奇なる出会いが運命の出会いへと変わる。
夜明け前の、黒々とした山々を背にした人家の疎らで心許ない小さな灯り。東京近県の田舎町か。そのロングショットの手前は左右に伸びる長い橋。やがてその橋の袂の暗がりから、ニット帽を被った若者が、いきなり手にした花束を河に放り込む。酒に酔っているのか、ふらつきながら欄干に身を預けて眼下の河の流れを見つめている。ごく瞬時の暗い画面からは、何をしているのかよく分からない。やがて微かに明るみを増した大空に、一羽の鳥が悠然と舞っている。映画は独特な暗調美を以って、緩やかに始まって行く。
よく晴れ渡った朝――早くも暗と明の映像対比を予感させる開巻だ。軽トラックで川に釣りにやってきた中年男が、岸辺に異様な何かを見つけて、急ぎ川岸に下りて行く。若者がそこに突っ伏している。中年男が助け起こすと、若者はすぐに意識を取り戻した。岸辺の水面に花束が浮かんでいる。若者は中年男に担がれて橋の上の軽トラックまで運ばれる。車はやがて男の木工所に。親切なこの男の勧めで、若者は当面この家に寝起きすることになる。これがシンイチと名乗る若者(柳楽優弥)と哲郎(小林薫)という中年男の奇妙な出会いだった。
若者は橋の暗がりから、誤って落ちたのか、それとも身を投げたのか…? その前に、シンイチが何者なのか不明だ。こうした映画の開巻を経た我々観客は、何処から来たのか分からない、当初は失語症かとさえ思われるほど意思表示のない、謎めいたシンイチ(若者が自ら名乗った偽名)の素振りと、この田舎町で木工所を営む哲郎との運命的な生活が始まって行く。やがて哲郎の周囲の人々を含めて、シンイチは身近になった人たちの仲間に導かれることになる。ここから我々観客は、あたかもこの場の一人に擬せられるかのように、じっと人と人の交流を見つめて行くことになる。
過去と明日の挾間で、生きることに葛藤する
それにしても、シンイチと関わる人々も興味尽きない存在だ。哲郎は無論のこと、木工所の従業員庄司(YOUNG DAIS)と米山(鈴木常吉)、哲郎の婚約者で事務員のシングルマザー宏美(堀内敬子)たちとの関りと葛藤は、シンイチの、どこか通過儀礼にも似て重要な役割を追っていると思う。特に哲郎は妻と息子を同時に失った過去がある。うまくいかなかった妻との暮らし。妻と息子は実家に向かう途中、交通事故に遭って死んだらしい。シンイチへの度を越した親切は何なのか。偶然にも息子の名は真一だった。
ヒタヒタと揺るぎない、対象に張り付くような確かな映画視線に即して、観客は、これらの人物たちを追いながら、身動ぎもせずこうした劇的要素に集中して行く。では、夢の挫折と自信喪失に浸されて意志すら破棄したかのような、この曖昧でそこはかとないシンイチは過去の何処から来て、明日の何処を目指して行くのか。いや、この若者からは明日などは一瞬も想起できない、茫然自失の中に閉じこもっているシンイチ。過去に何かあったのか? その曖昧模糊の存在に引き込まれながらも、観客は次の展開をじっと待ち受ける。人間なんて自身の暗路からそうそう簡単に抜け出せるものでもない。シンイチに等身大を覚える観客も多かろう。シンイチは哲郎から木工技術を厳しく叩き込まれることになる。実の息子である真一は、木工の仕事に馴染めなかったらしい。親の希望と息子の欲する進路が食い違うのは、どこの家庭にもままあることだ。
ふと、映画の主眼とするところは、シンイチの過去と明日との間の、深い地底でのもがき、不分明な内的ストラッグルを描き出すことにあるように感じ始める。この世に生を受ければ、多くは誰しもこうした苦悩と無縁ではいられない。映画の途中から、この若者が一体どのように「何処に如何にして生の糸口らしきものを掴みかけるのか」に、当面の興味を覚えながら画面を追いかけた。過去の素性を隠したまま、罪の意識を内に押し込めたまま、シンイチは次第に周囲と和み始めて、その関係を築き始めて行くのだが、心を開きはじめたその矢先に突然思いがけない大きな破綻が訪れる。終局の、哲郎と宏美の結婚式のシーンだ。
人生の夜明け前にあること
シンイチに心底世話を焼き木工の技術を仕込んで(無論善意からだろう)、恰も父性を押し付けるような行き過ぎに気づいていない哲郎は、実子の真一で果たせなかった夢をシンイチで叶えようとしているのか。その哲郎にはシングルマザーの宏美との結婚についての葛藤がある。なかなか結婚式に踏み切れない哲郎をなじる場面もあった。前の結婚の失敗を気にかけてのことだった。木工所の中で親しい人たちを招いて、哲郎と宏美の結婚式を執り行なった祝いの場で、哲郎がシンイチに寄せる余りに大きな期待を、皆に吐露するもの、シンイチはその重圧に居たたまれず、その場から逃げ出して行く。「僕はシンイチじゃない。」と、本名を言い放って式場を後にする。
闇雲に走りながら、シンイチは本来の自分自身に立ち返って行くのであろうか。光は夜の道を走って踏切で行く手を遮られ、列車が通過するまでそこに立ち尽くす。踏切板が上がっても光は立ち尽くして、どこへ行こうとしているのか分からない。だが、前方を見つめるこの若者の眼に、一瞬、意志の光が宿ったことを私は見たような気がした。これまでのシンイチには見ることができなかった強い視線と光。このカットを観た時、私は解き放たれ救われた。映画の核が凝縮された瞬間に触れた。主人公にとって、この地方都市での彷徨と煩悶と人々との葛藤は、知らず知らずに荒療治の場になっていったのではないか。
エンドロールの先に込められた切実なメッセージ
若者はこの一瞬、自身の「負」と「悲」を僅かにくぐりぬけた。しかし、ここから何処へ。夜明け前の暗い「橋」から、こうして早暁近い「踏切」に辿り着いた。主人公の、微かな再生を追いかけてきた映画は、ここで一旦終わりを迎えるが、彼の現実はこれからだ。安易な結末のカタルシスに近寄らなかった。このエンドマークのあとにこそ、広瀬奈々子監督から我々観客に受け渡されるであろう切実なメッセージがあると思う。
2019年は始まったばかりだが、『夜明け』は、本年度ベストランクに位置することを約束されたのではないか。従来の映画的技巧に陥ることなく、自身の信念とも思われる冷徹な描写を随所に刻印しながらも、画面からは或る温度、得も言われぬ温かみが感じ取れるのは何故だろう。不思議な映画体験をさせて頂いた。スタッフ・キャストとの切磋琢磨のさなかで、自身を気丈に柔軟に貫いた結果なのだろうか。幾百幾千もある選択肢を前にして、自身の正解を求めて行く現場作業の厳しさを乗り越えて、晴れのデビュー作を確たるものにした。多くのファンから祝福されて然るべきだ。大きな賛辞を伝えたいと思う。
それにしてもこのような独特の映画作品を、文字(言葉)で語ることの難しさよ。映画の映画たる所以に脱帽し、映画ライターとして潔く白旗を掲げよう。
『夜明け』は2019年1月18日(金)より新宿ピカデリーほか 絶賛上映中
『夜明け』
ある日の明け方。白み始めた空の下、橋の上で朦朧としながら花束を河に投げる、ひとりの青年の姿があった。その朝。釣りをするため河辺にやってきた哲郎は、水際に倒れていた青年を見つける。哲郎は自宅で介抱した。
一人やもめの哲郎の家。「ヨシダシンイチ」と名乗る、そんな謎めいた青年に妙な執着を覚えた哲郎は、自分が経営する木工所に連れて行った。職場ごと家族のような温かい雰囲気の中、青年はなりゆきで「シンイチ」として哲郎の家で生活することになった。
その後、彼らの周りで、数年前に町で起きた事件にまつわる噂が流れ始める。
そして、青年が抱えている、ひとつの決定的な暗い秘密が明かされる。
制作年: | 2018 |
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監督: | |
脚本: | |
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