香港市民の漠然とした不安とシンクロするフルーツ・チャン作品
1997年の中国への返還を前に、香港の映画人たちは未来の映画作りに漠然とした不安を抱いていた。そして返還の直前には、その不安と希望が入り混じった名作も相次いで誕生する。
ウォン・カーウァイ監督の『ブエノスアイレス』(1997年)では、終盤に鄧小平の死と香港返還のニュースが流れ、トニー・レオンが演じるファイはアルゼンチンから香港へ帰っていく。ブエノスアイレス、イグアスの滝で激しくも痛々しい愛の日々を経験したファイが、諦めの境地のような表情で元の生活に戻ろうとする姿は、近い未来、香港で共産党政権の支配が強まり、それでもその香港で生活していかなくてはならない現実を暗示しているようでもある。
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この返還を真正面から意識したのが、ちょうど返還の1997年に出現した『メイド・イン・ホンコン』である。それまで無名に近かったフルーツ・チャン監督が低予算で撮り、若者を中心に香港で熱狂的な支持を集め、海外の映画祭でも受賞を重ねるようになる。フルーツ・チャン監督は、この『メイド・イン・ホンコン』を皮切りに、1998年の『花火降る夏』、1999年の『リトル・チュン』と、「返還三部作」を発表。変わりゆく香港の街をフィルムで残そうとした。
『メイド・イン・ホンコン』の主人公チャウは、中学を中退し、借金取りの手伝いをして日銭を稼いでいた。自分と似たような境遇の少女ペンと出会い、チャウの子分で知的障害のあるロンが自殺した少女の遺書を発見したことから、彼らは過酷な運命に巻き込まれていく。チャウ役のサム・リーは、監督が街でスケボーをしていたところをスカウトしたズブの新人。撮影はオールロケ。これまでの香港映画では目にしたことのない裏町なども多く登場し、全編に漂う、ぎこちない、不安定な感覚は、今後、中国政府が自分たちにどう対処するのかという香港市民の漠然とした不安とシンクロしている。
この『メイド・イン・ホンコン』は返還から20年後の2017年に4Kレストア・デジタルリマスター版が作られたが、返還当時よりも不安感が増す香港の空気を表現していると話題になり、予言的作品とも言える。『花火降る夏』では、イギリス軍の香港駐屯部隊が解散し、仕事を失った軍曹が黒社会の仕事に手を染め、返還式典当日も重要なシーンとして登場。一転して『リトル・チュン』では9歳の少年の目を通して、町の人々の日常から返還直前の香港を見つめた。
ゆるやかに変わっていく返還後の香港の街を肌で感じ取ることができるジョニー・トー作品
こうして返還を意識した作品が現れたとはいえ、1997年に香港の風景や社会が激変したわけではない。しかし返還のあたりから、香港映画は80年代にピークだった黄金期が過去のものになった感もある。ジャッキー・チェン、ジョン・ウー監督といった大物は、ハリウッドでの活躍が定着。チョウ・ユンファ、ミシェル・ヨーも相次いでハリウッドに進出した。香港アクション界を代表する武術の達人、ユエン・ウーピンも、『マトリックス』(1999年)でのアクション指導で一躍、その名を世界に知らしめる。一方で香港での映画製作本数は返還後、年々減少し続け、そこに追い討ちをかけるように、SARSや鳥インフルエンザの蔓延、レスリー・チャンの自殺など、とにかく暗いニュースが続いた。
ただ世界的には、ユエン・ウーピンが『マトリックス』に続いて指導した、アメリカ・中国合作の『グリーン・デスティニー』(2000年)がアカデミー賞に絡み、クエンティン・タランティーノは『キル・ビル』2部作(2003~2004年)で香港アクションへの愛を表現するなど、香港映画のスピリットは広く伝播していく。『インファナル・アフェア』(2002年)がグローバルな人気を集め、ハリウッドで『ディパーテッド』(2006年)としてリメイクされたのも好例だ。
返還を境に香港の才能が外へ向かう中で、あくまでも香港を拠点にした監督が、チャウ・シンチー、ジョニー・トー、ダンテ・ラムら。『少林サッカー』(2001年)など中国マーケットを意識した作品が目立つチャウン・シンチーに比べ、返還後の香港の「街」が鋭く活写されているのが、ジョニー・トーの作品だ。中でも1999年の『ザ・ミッション 非情の掟』は、黒社会の男たちの犯罪ノワールながら、返還直後の香港のショッピングモールや街の食堂、ひと気の少ないビルなどが印象的に使われている。ちなみに同じメンバーで製作された2006年の『エグザイル/絆』は、1999年、中国に返還される前夜のマカオが舞台になっているので、観比べる楽しみもある。さらに『ザ・ミッション』から、2005年の『エレクション』、2009年の『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』とジョニー・トーの映画を追っていけば、返還後、ゆるやかに変わっていく香港の街の姿を肌で感じ取ることができるはずだ。
現代香港を捉えたオムニバス『十年』、サモ・ハン・キンポーら参加の『七人樂隊』
一見、街の風景には劇的な変化が起こっていないようで、じわじわと香港の人々の心には不安が増大していたのは、ここ数年のニュースで明らかだ。その言い知れぬ不安を表した映画が、2015年の『十年』だった。香港のインディペンデントの若い監督たちが撮ったオムニバスで、2015年から10年間で香港はどうなるのかを描いたもの。
冒頭の「エキストラ」は返還から20年後、つまり2017年が舞台で、政党の党首を襲った事件を裏で中国が糸を引いており、取り締まりを強化するという、まさに予言的な内容。
続く「冬のセミ」は2025年、あらゆるものを標本で残そうとする男女の物語。3本目の「方言」は、北京語が主流になって広東語が追いやられる状況をコミカルに描く。
4本目の「焼身自殺者」は政府への抗議活動をする青年たちが主人公で、2014年の雨傘運動の映像も使われた。そして最後の「地元産の卵」では、「香港」を強調することが独立につながるから危険、という皮肉的メッセージが込められている。
2025年までの未来を描いた『十年』だが、すでに2020年までにこれらの予言が現実になっているような錯覚をおぼえる。この『十年』と、2016年製作(日本は2018年公開)のドキュメンタリー『乱世備忘 僕らの雨傘運動』を合わせて観れば、現実がさらに切実に迫ってくることだろう。
このように、ここ数年は明るい話題が乏しい香港映画だが、2020年のカンヌ国際映画祭でオフィシャル・セレクションに入った『七人樂隊(原題)』は、香港の歴史を総括する意味で重要な一作。オムニバス作品で、各話のメガホンをとったのが、サモ・ハン・キンポー、アン・ホイ、パトリック・タム、ユエン・ウーピン、ジョニー・トー、リンゴ・ラム(2018年逝去)、ツイ・ハークと、まさに香港映画を代表する巨匠たちなのだ。サブタイトルに「The Story of Hong Kong」とあるように、彼らがそれぞれ時代を割り当てられ、得意の演出でその時代のドラマを描いている。過去へのノスタルジー。そして未来の香港がどんな世界になっているのか……。中国との関係も含めて香港映画の今後を予測する意味でも必見の一作である。
文:斉藤博昭