あの「アビイ・ロード」のジャケットの横断歩道の右側
1990年、青雲の志を胸に私はロンドンの地に立った。しかし、現実は厳しい。驚いたのは自分の英語があまりに貧弱で、仕事相手が何を言っているのかわからないこと。だから仕事にならない。イギリス人の小学生が立派な英語を話しているのに嫉妬して、一日中布団に包まっていたかった。しかし、仕事で赴任したわけで、会社に行かないわけにはいかない。よくあんな状態で「のようなもの」社員を飼っていてくれたものである。
そんな私であったが、住んでいたのはたまたまガスコンロがあるということで選んだフラット。やたら広くて軽く200㎡を超えていたと思うが、生活空間はせいぜい50㎡。あの「アビイ・ロード」のジャケットの横断歩道の右に写っている大きな建物、Neville Courtの中の半地下のフラットである。「ほら、そこにEMIスタジオ」と不動産屋のおばさんに教えられても、「ああ、これが」程度のことしか思わなかった。ザ・ビートルズが好きで好きでコピーをしていたバンドにいたのだが、私はそういうことになかなか感動できない。
ジャケットには大きな建物の奥の方しか写っていないが、あの横断歩道を歩いている彼らの視線の先にあるのが私のフラットで、あのジャケット写真を撮った時のオフショットでは、図々しくも4人が半地下のフラットの窓のすぐ側の縁石に腰掛けて休んでいたりする。住んでいた人間からすれば、尻を向けた連中がたむろしているのだから、さぞかし鬱陶しかったことであろう。
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だが、よく考えてみれば映画『ビートルズ/レット・イット・ビー』(1970年)で彼らはあのスタジオに籠って、めちゃくちゃ陰険な喧嘩をしながら(そういうとこはあんまり映っていないけど)、レコーディングに励んでいたわけで、なんとなくありがたさを感じた。西行の「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」の心境に近いかも。そんなわけで、大酒を飲んで帰宅するときも「アビイ・ロードのEMIスタジオ」と言えば、タクシーの運転手は間違いなく連れて行ってくれる便利なところだった。
そんなビートルズ、映画『レット・イット・ビー』の聖地から10メートルのところに住んでいた私は、気候が良くなる5月くらいから休日に家にいると妙に窓の外がざわつくのに気がついた。ずっとうるさい。いまだから聖地巡礼と言えば日本人はすぐにわかるのだろうが、当時映画に出てきたからといって、あそこに行かなきゃという人間がいるとは知らなかったので、本当に驚いた。しかも、日本人だけであるはずもなく、世界中から聖地を目指してビートルズファンが押し寄せてくるのである。
何がそんなに楽しいか
EMIスタジオはジュビリーラインのセント・ジョンズ・ウッド駅から歩いて7分程度。ピカデリーサーカスからすぐ側までバスも走っている。誰でも間違いなく到達可能なのである。
まず4人であの横断歩道を歩いて、写真を撮る。そういう団体が順番待ち。あの横断歩道では歩行者が待っていると絶対に車は停止しなければならないという厳しいルールがあるので、必ず渋滞が起こる。気持ちはわかるが住んでいる人間にはちょっと鬱陶しい。それからスタジオの壁に「アイシテル」「4ニンヨエイエンニ」「〇〇〇ケンザン」とか書いても世の中変わらない、誰も読みはしない、誰の役にも立たないことを落書きしていく。みんなマジックペンを持参しているのがちょっと感動的かも。
その壁が落書きでいっぱいになると、スタジオの小僧さんが上から新しく白く塗り直す。そうしてまたその上に、その上に……ということになる。あれを永遠にやっていると異様に厚い壁になってしまうので、定期的にガリガリと壁を削っているのだと思うが、それは目撃していないので、私の残したものはあの壁の中に常にしまってあるの、と信じていてもいいんじゃないかな。
陰鬱なスタジオ、しかし……
映画『レット・イット・ビー』は繰り返し観たが、スタジオの内の空気は決してよくない。メンバーの気持ちがバラバラになっているのがよくわかる。と、ここまで書いてもう一度確認してみたところ、どうもこの作品が撮影されたスタジオはEMIスタジオではなかったようである。なんという失態。ここは映画のコラムを書くページで、私の思い出話の場所ではない。ボツにしようかと思ったが、「もったいない」の精神で、このままいかせていただく。
映画の中で彼らはスタジオを出る。サビル・ロウ(通りの名前。背広の語源とされる仕立て屋のある通り)にあった旧アップル本社の屋上で行われた「ルーフトップ・コンサート」はあまりにも有名で、多くのミュージシャンが真似をしたがっていたが、斉藤和義の「ずっと好きだったんだ」がバカバカしいほどよくできている。ビートルズの4人が誰一人としてこの場所でのライブを望んでいなかったのに決行されたライブ映像が、今でも最高にカッコイイものになっているというのも皮肉な話である。
今このビルの屋上に行くことはできないはずだが、それらしい建物は推定可能。ほぼ毎日この辺りを歩いていたが、あえて探したことはなかった。ちなみにビートルズの最後の録音であるアルバム「アビイ・ロード」は当然のことながら、それ以前から彼らのアルバムは慣れ親しんでいたEMIスタジオで収録されている。
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映画『レット・イット・ビー』はある時から権利問題で、海賊版、古くに発売されたソフト以外では視聴不可能となっている。ピーター・ジャクソンが新たに編集したもの(『The Beatles: Get Back』:原題)がすでに完成しているはずだが、またしても新型コロナウイルス流行の影響で2021年まで公開延期になっている。なんとも言えぬ気鬱な日々を過ごしているが、『レット・イット・ビー』を観て、もう一度バンドで一稼ぎという心境にさせてくれるのではないかと期待している。
Just announced: Peter Jackson’s “The Beatles: Get Back” documentary, featuring never-before-seen footage of the legendary band, comes to theaters September 4, 2020.
— Walt Disney Studios (@DisneyStudios) March 11, 2020
Photo Credit: ©1969 Paul McCartney / Photographer: Linda McCartney pic.twitter.com/8BM11NH3Iz
恋の街、ノッティングヒル、のはず
さて、アビイ・ロードから離れて、賑やかな街へ。シンデラストーリー『プリティ・ウーマン』(1990年)は私がロンドン着任した時に公開されたが、独身で出会いを求めてわざわざロンドンまでやってきていた女性の友達たち(あくまでも私が知っている二人に限る)の心に爆発的に火をつけた。
「毎日でも観たい」「あんなことを待っている」と夢を通り越してサイコパス状態の彼女たちと、どういう会話をすればいいのかわからず戸惑ったものである。あんなことを求めるなら、まずコール・ガールにならなきゃなんないわけでしょう。しかし、あれはアメリカでの夢物語。
それから9年が経ち、同じジュリア・ロバーツが主演したほとんど漫画同然の逆シンデレラストーリーが『ノッティングヒルの恋人』(1999年)である。
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ジュリア・ロバーツ、不思議な縁の作品を選んで出るんだなあ、と思いました。それでも当時は日本に帰国して、J-WAVEで毎朝話をしていた私は、番組に篠原涼子さんがやってきて、携帯の番号を書いた紙をこっそり握らせてくれるなんてことがないもんだろうか、と夢想していたのだから、男も女も同じことである。
ダメ男とハリウッド女優の偶然の出会いからのドタバタ。ヒュー・グラントがそのまんまを演じているんじゃなかろうかと思わせるようなベタで素敵なファンタジー。
今、ノッティングヒルを調べると高級住宅街となっているが、映画公開当時はそんな場所ではなかった。雑多な人種・民族が混在してグジャっとしている楽しい街、というのが正しい解説。
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毎週末、ポートベロー・ロードではアンティークの蚤の市が開かれて、ロンドン中から、世界中から人が押し寄せてきて、大変な賑わいを見せる。夏に開催されるノッティングヒル・カーニバルはリオのカーニバルを100分の1くらいのスケールにした、こじんまりとしたお祭りだが、どこにいた君たちというほどの人出で、普段そこで暮らしていて、人が多いのが苦手な人たちはその日は街から逃げ出し、アビイ・ロードのようなEMIスタジオ以外何もないところにいた私たちはお祭りに出かけるのであった。
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ただ、ノッティングヒルに住んでいた女性社員が、若い女の子たちにカツアゲされるという事件が起こったりするところでもあったので、多少の注意は必要でした。ま、当時のロンドンはカセットデッキを車に据え詰めたままにしとくと、窓割られて持っていかれることは日常茶飯事だったので、必要以上に恐れることもなかったか。
地下鉄のノッティング・ヒル・ゲート駅から徒歩数分のところにクィーンズウェイ駅がある。実は私はノッティングヒルよりも頻繁にこの駅の真正面にあるレストランに通っていた。もしロンドンに行って、ノッティングヒルに出かける際にはぜひご利用いただきたい。100人に紹介して、100人が絶賛。予約しないと、まず入れないので、早めに電話をしてくださいね。
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店名:マンダリン・キッチン(中華料理)
メニューがやたら多いので迷うはずだけど、全部が全部絶品というわけではありません。以下のものをオーダーしてください。
フカヒレスープ:一人一つ
スティームド・スキャロップ:一人二つずつ
ソフトシェル・クラブ:一人一つ
プローン・ミートボール:一皿
野菜のガーリック炒め:一皿
ロブスターヌードルズ:人数分
これで充分だけど、足らなければ適当にどうぞ。
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基本的にロンドンに美味いものなし。ずいぶん変わったよ、と注意を受けるのだが、私は信用していない。信用しているのはこの店だけ。ピカデリーサーカス近くのチャイナタウンにも通ったが、大好きだった店2軒はなくなり、あそこはもうあかんやろう。イタリアンは意外に「あれ、これは」というものがあるが、それはご自分で探してくださいな。
文:大倉眞一郎
『ノッティングヒルの恋人』はU-NEXTほか配信中