女王陛下とともに激動の時代を生きてきたジェームズ・ボンド
映画『007』シリーズの第6作目『女王陛下の007』の原題は『On Her Majesty’s Secret Service』である。“Her Majesty”と聞いて、ザ・ビートルズの「アビイ・ロード」に収録された短い楽曲を思い出す洋楽ファンもいることだろう。筆者は映画の公開と同アルバムの発売が同じ1969年であることは、決して偶然ではないと信じている。
His (Her) Majestyとは国王を意味する尊称のようなもので、On Serviceは「仕えている」であり、これにSecretがつくと「秘密の任務に従事している」となる。イアン・フレミングの長編第10作のやや長いこのタイトルを、日本の翻訳家・井上一夫氏は「女王陛下の007号」と見事に訳した。のちに「号」の文字は映画や原作小説のタイトルから欠落したが、“Her Majesty”という日本人にとって難解な英語が“女王陛下”という意味であることは『007』ファンならば常識なのだ。
1926年4月21日生まれのエリザベス2世は、1952年2月6日に若干25歳で女王に即位した。イアン・フレミングの処女作「カジノ・ロワイヤル」がイギリスで出版されたのは1953年。イギリスを代表するヒーローのジェームズ・ボンドは、まさに女王陛下とともに激動の時代を生きてきたのだ。
カナダ、オーストラリアなど世界16カ国の女王としても君臨するエリザベス2世の在位は68年を越え、イギリス史上最長在位の君主であり、存命する君主としても世界一位の長寿となった。94歳となった今でも公務に多忙で、新型コロナウイルスにも負けずお元気そうなのだから恐れ入る。世界に君臨した大英帝国の威光は過去のものとなったが、エリザベス2世とジェームズ・ボンドは今なお健在。そして『007』シリーズは節目でさりげなくこの偉大なる女王陛下を祝福してきたのだ。その歴史を振り返ってみよう。
若き女王とボンドの出会い
『007/サンダーボール作戦』(1965年)でスペクターの女殺し屋、フィオナに捕らえられたボンドは、彼女に近づいたのが「For king and country(国王と国のため)」だったと強がる。1965年は既にエリザベス女王の時代であったのに、ボンドが「Queen」という言葉を使わなかったのは謎だ。本作の単独プロデューサーにクレジットされたのはアイルランド出身のケヴィン・マクローリー 。イギリスとアイルランド国民は長年反目しあってきたことを考えると、マクローリーが若き女王を認めていなかったのでは? と勘繰りたくなる。1949年に共和制となったアイルランドにイギリスの国家元首が初めて公式訪問したのは実に62年後、2011年のことである。
『女王陛下の007』(1969年)ではオーストラリア出身のジョージ・レーゼンビーが二代目ジェームズ・ボンドを演じた。ボンドが自室に戻ったときにエリザベス2世の肖像画に向かって、ウイスキーのスキットル(小型水筒)を掲げて「Sorry ma’am(失礼、女王)」とつぶやくシーンがある。実は『サンダーボール作戦』の撮影中にショーン・コネリーは次回作は『女王陛下の007』を予定しているとインタビューで語っていた。順調にいけば1967年の公開となっていたはずで、製作陣はエリザベス2世の即位15年を祝うつもりだったのかもしれない。実際にはスイスでの撮影準備やコネリーのスケジュール調整がうまくいかず第5作は日本ロケの『007は二度死ぬ』(1967年)となった。肖像画とはいえ、映画の中でエリザベス2世と初めて会ったジェームズ・ボンドがイギリス出身でなかったのも皮肉であった。
ユニオン・ジャックでジュビリーを祝うボンド!
イギリスに限らず世界では国王の即位記念日を祝うとき、ジュビリー(jubilee)という言葉が使われる。元々はユダヤ史の50年節を表すもので、シルバー・ジュビリーとは25年祭、ゴールデン・ジュビリーとは50年祭のことだ。日本でも結婚25周年を銀婚式、50周年を金婚式として祝う習慣があるのと同じである。
実は『007』シリーズも1977年公開の『007/私を愛したスパイ』では冒頭のスキー・ジャンプからユニオン・ジャックのパラシュートを誇らしげに開いてエリザベス2世のシルバー・ジュビリーをお祝いしていたのである。1982年は即位30年。結婚式のお祝いでいえば真珠婚式であるが、残念ながら『007』シリーズの新作公開はなかった。
1992年は即位40年で同じくルビー婚式に相当するが、この年も『007』映画が製作されなかった。しかも、イギリス王室は次から次へと発覚する離婚スキャンダルに悩まされていた。これにウィンザー城の火災も追い討ちをかけたことから、エリザベス2世いわく「1992年はひどい年であった」。仮に『007』シリーズの新作が公開されても世論に配慮して、あからさまに王室を礼讃・祝賀することなどなかったであろう。
1997年は即位45年。五代目ジェームズ・ボンドのピアース・ブロスナンの時代である。同年に公開された『007/トゥモロー・ネバー・ダイ』の冒頭、公用車の中での慌ただしいミーティングでボンドがメディア王・カーヴァーの妻とかつて恋人関係にあったことが明かされる。MI6内では公然の秘密だったことにボンドは驚くが、ミス・マネーペニーに「Queen and country」と諭される。「女王とお国のためなら個人情報も作戦に使うのよ」ということらしい。
即位45年を意識したわけではないだろうが、クイーンという言葉が出てきたことに筆者は安堵したものだ。なぜなら前作『007/ゴールデンアイ』(1995年)では「For England」とイングランドがことさら強調されていた上に、裏切り者のアレックにボンドは「Her Majesty’s loyal terrier(女王陛下の忠犬)」と見下されていたからだ。
2002年の即位50年、つまりゴールデン・ジュビリーの年に公開となった『007/ダイ・アナザー・デイ』では、ジェームズ・ボンドではなく敵役のグスタフ・グレーブスがユニオン・ジャックのパラシュートでバッキンガム宮殿に降り立った。記念すべきシリーズ第20作であり、公開40周年の記念作となった同作はちょっと趣向を変えたものの、シルバー・ジュビリー同様派手に女王陛下の即位50年を祝したのである。
世界が驚嘆したロンドン五輪開会式での競演
そして2012年は即位60年。全世界の『007』ファンにとって忘れられない年となった。ロンドン五輪の開会式で六代目ボンドのダニエル・クレイグがバッキンガム宮殿のエリザベス2世ご本人を迎えにゆき、ヘリコプターでオリンピック・スタジアム上空に駆けつけたのである。そして唐突に女王がスカイダイビングでロンドンの夜空に飛び出した。ボンドも後に続き、二人が地上に降り立つタイミングで会場の主賓席にエリザベス2世が全く同じドレス姿でひょっこり現れる。この洒落た演出に世界中の視聴者が拍手喝采した。
女王陛下とボンドが登場するのは録画済みの昼の映像であり、夜に行われた開会式とは厳密には繋がらない。しかし、そんな野暮なことはお構いなしのイギリス流ユーモアと女王の健在を世界に示した瞬間だった。オリンピック開会式の演出としては後世まで語り継がれるであろう。尚、同年に公開された『007/スカイフォール』のラストシーンではダニエル・クレイグの背後にユニオン・ジャックが控えめに映っており、同じく女王陛下のダイヤモンド・ジュビリーを祝している。
最後にちょっと先走った話ではあるが、2022年はエリザベス女王即位70周年、プラチナ・ジュビリーである。エリザベス2世の益々のご健康を祈るばかりだが、『007』ファンとしてはダニエル・クレイグ引退後の七代目ボンドを早く決めて、2022年に新作『Bond26』を公開して欲しい。同年は1962年の『007/ドクター・ノオ』以来『007』映画公開60周年の記念すべき年でもあり、その際には新生ボンドがユニオン・ジャックで派手に女王を祝福するシーンが用意されているはずだ。
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文:村井慎一(ボンド命)
『007』シリーズはCS映画専門チャンネル ムービープラスで2020年7月ほか放送