望まれぬ形で再び脚光を浴びるスパイク・リーの代表作
スパイク・リー監督の出世作『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989年)が、2019年に公開30周年を迎えた。それを記念したブロックパーティーがニューヨークで開催され、非常に盛り上がった。周年祭が開かれる映画など聞き覚えがない。この作品が非常にアイコニックな存在であることがわかる。
2020年5月にアメリカのミネアポリスで、白人警官が黒人男性を逮捕する際に、窒息死させる事件が発生した。その事件が『ドゥ・ザ・ライト・シング』のストーリーを彷彿とさせたために、再びこの作品が、喜べぬ形で脚光を浴びることとなった。
※実際の事件の映像が含まれています。視聴の際はご注意ください。
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インフルエンザのパンデミックを描いた『コンテイジョン』(2011年)、そして白人警官よる黒人市民の扼殺が描かれる『ドゥ・ザ・ライト・シング』と、あたかも未来を予見していたかのような映画が脚光を浴びる現象が、この数ヶ月の間に続いた。
▶まるで予言!? 新型ウイルスの恐怖をリアルな科学考証とシミュレーションで描く『コンテイジョン』
それは単なる偶然ではなく、どちらも予見できる社会問題として、以前から露呈していたからであろう。とは言ってもあまりにも短い期間に、予見的な映画が連続して話題になったことは不気味に感じる。
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内包したメッセージ以上に五感に訴えかけてくるブラックカルチャーの魅力
『ドゥ・ザ・ライト・シング』は人種差別問題を真正面から描いた作品である。しかし本作がアイコニックである理由は、そうしたメッセージ性ではなく、思わず「カッケー」と唸ってしまうファッション性に負うころも大きいのではないだろうか。
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まだ見ていない人、または見ようと思っているが鑑賞の2時間が取れない人は、まずはオープニングのラップグループ、パブリック・エネミーの曲「ファイト・ザ・パワー」に乗って踊りまくるロージー・ペレスのヒップホップダンスだけでも見て欲しい。いま見てもめちゃくちゃかっこいい。なんだか無性に熱い気持ちになるよ(笑)。音楽もダンスも、30年前はさらに衝撃的で、斬新に感じたものだ。この「ファイト・ザ・パワー」は作品全編を通して流れ続け、魂を揺さぶる。スパイク・リーの創作の根源となっているはずた。
Nikeのスニーカーに代表される、登場人物が身に纏うヒップホップ・ファッションも、30年前当時は非常に新鮮だった。映画の中で皆一様に首から下げている革製のアフロなデザインのペンダントは、当時東京でも売っていて、私も買った気がするんだけど(笑)。どこやっちゃったかな?
この作品を「人種差別がテーマである」とバイアスを持って見ると損をする。最大の魅力は、ヒップホップやそれに付随するカルチャーが、いよいよメインストリームに飛び出し、その後ポップミュージック界をすっかり変えてしまうエネルギーが、新鮮に密封されているところにある。現在ヒップホップは完全に音楽界を制圧してしまった。
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さらに、スタイリッシュな脚本と文学的な構造に驚かされるはずだ。まるで舞台演劇を見ているような気持ちになる。クライマックスの暴動に至るまで、さしたるストーリーもないのに、会話の面白さとテンポの良さで、飽きずに見させる力量はたいしたものだ。本作は第62回アカデミー賞で脚本賞にノミネートされている。
若きスパイク・リーのケレン味あふれるカメラワークと美しい光の演出に感動
物語は、ニューヨーク・ブルックリンの黒人住居区の中のみで展開される。そこの住人の日常生活を描いた群像劇である。スパイク・リー自ら演ずる主役のムーキーはピザの配達員。仕事柄、街中を動き回る。ラジオ・ラヒームは常に巨大なラジカセから「ファイト・ザ・パワー」を大音量で鳴らしながら、意味なく街を徘徊している。“市長”とあだ名される、みすぼらしい老人は暇つぶしに街をうろつき回る。
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そうした「動き回る人たち」と、街角の同じ場所にビーチチェアを出して腰掛け、毎日飽きもせず管を巻くだけのオヤジ3人組や、窓辺に座り外を見つめているマザー・シスターといった“いつも同じ場所にいる”人たちが、顔を合わせることによって会話が生まれ、なめらかに登場人物が移り変わっていく。また、ブレイク前夜のサミュエル・L・ジャクソンが演ずるDJラブ・ダディのシティーFMのリスナーとして、住民はゆるやかに繋がっている。この構造が作品のアイディアの肝である。
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文学的で“クール”な脚本が、独特のカメラワークで繋ぎ合わされているのも、この作品の特徴だ。それは、見る者にカメラの存在を意識させない“クール”なカメラワークではなく、わざとカメラの存在をアピールしたようなケレン味あふれる撮り方をしている。一番驚くのが、画面を斜めに使った構図が多く使われているところだ。基本的にそれはタブーだと思うのだが、“若気の至り”なのではと思うほどカメラワークは凝りに凝っている。撮影法のアイディアがあふれてきて抑えられなかったのではないだろうか。しかし、その荒々しさと自由さが、作品にユニークな魅力を付与しているのは間違いない。
光の演出にも感心した。市長はマザー・テレサに思いを寄せている。ある日なけなしの金で花束を買い、いつものように窓際に座る彼女にプレゼントする。その時、2人は夕方の西日に照らされている。その日光はライティングではなく実際の夕日だと思う。
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いつも市長に冷たく当たるマザー・テレサだが、ある日、優しい言葉をかける。市長は有頂天になる。薄暮の中で市長は饒舌になる。語り出す市長の背後の街灯に、ゆっくりと火が灯る。街灯の灯る時間を計算して演技を始めて、撮影したシーンだと思う。些細なことだが、私は感動した。
人間社会の「滑稽と悲惨」を描くスパイク・リーの文学性を改めて実感
『ドゥ・ザ・ライト・シング』には、同じスパイク・リーの監督作品である『ブラック・クランズマン』(2018年)のように、グロテスクなレイシストが登場するわけではない。黒人とプエルトリカンが“主”である居住区にイタリア人の父子3人が営むピザ屋と、韓国人夫婦が営む雑貨屋が一店ずつある。皆お互いに嫌悪感を抱きつつも、貧しい街に生きる者としての連帯感は持っている。登場人物の中で連帯の外にいるのは警察官だけであるが、それとて嫌悪感を抱くような描かれ方はしていない。
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イタリア人と韓国人は働き者で、黒人たちは非常に怠惰に描かれている。ラストの警察官による殺人に至る経緯は、黒人たちの幼稚な行為が原因であり、彼らの行動は非常に腹立たしい。悲惨な事件の原因は完全に黒人たちにある。この作品はアメリカ社会における黒人の置かれた状況を告発するような内容では決してない。スパイク・リーが描き出そうとしたのは、取るに足らない出来事がおぞましい結果を生んでしまう、人間社会の「滑稽と悲惨」である。やはり文学的なのだ。
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最後に1つトリビア。暴動を煽る一番変な奴、バギン・アウトを演じたのは、若き頃のジャンカルロ・エスポージト。ドラマ『ブレイキング・バッド』(2008~2013年)の最大の悪役ガスである。
文:椎名基樹
『ドゥ・ザ・ライト・シング』はNetflixほか配信中
『ドゥ・ザ・ライト・シング』
ブルックリンのアフリカ系アメリカ人居住区にくらすムーキーは、イタリア系のサルが経営するピザ屋で宅配の仕事をしている。ある日、ムーキーの友人であるバギン・アウトが来店、だが彼は、店の壁にイタリア系有名人の写真ばかり飾っているという理不尽なクレームのために、店を追い出されてしまう……。
制作年: | 1989 |
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監督: | |
出演: |