2014年に実際に起きた“少年による祖父母殺害事件”に着想を得た映画『MOTHER マザー』が2020年7月3日(金)より公開される。母親の歪んだ愛情しか知らずに育った少年が、その母親の一言がきっかけで凶行に走るという痛ましい事件を描き、救いの手が届かない日本社会の死角に深く切り込んだ意欲作だ。
本作は、自堕落な生活を送りながら実の息子に異様な執着をみせる母親・秋子を長澤まさみが演じ、その母親に翻弄されながらも歪んだ愛にけなげに応えようとする少年・周平を本作がスクリーンデビューとなる奥平大兼が演じる。映画製作の背景や役者陣への熱い想いを大森立嗣監督に語っていただいた。
「映画としては、実際の事件の“分からない部分”に向かっていけばいい」
―本作は実際の事件を題材にしていますが、最初に企画を聞いたときにはどう思われましたか?
社会的なセーフティーネットがうまく機能しなかったことでこの親子を救えなかったという側面と、母親の秋子が最初の方で「自分が舐めるように育ててきた子」って言うんだけど、一方では半分ネグレクト(育児放棄)のような行動があったりもする。その両方の側面のなかで、「いったいこの親子の関係は何だったんだ」って想起させる力があったんですよね。そこにすごく惹かれた気がします。
母親のある種の過剰な子どもへの愛と、一方でネグレクトみたいに子どもに酷いこともやっていたという“分からない”部分ですね。それと「子どもはなんで逃げなかったんだろう」っていう部分や、なぜ人を殺すまでに至ってしまったのか? という疑問。映画には基本的に、分からないものに向かっていく力があると思っていて、2時間とかの流れのなかで答えの分かるものに向かっていくのはあんまりおもしろくないなといつも思っていて。この事件だったり、この脚本にはそういう力があったんじゃないかなって思いますね。
―実際の事件を題材にすることで、どこまでリアリティを求めるのかが難しかったと思うのですが。
いつもそうなんですけど、映画にしていくなかで、脚本的には離れちゃうんですよね。ある部分では、もうすでに脚本上でリアルに書かれている部分があるので、それ以上に“あの事件がこうだからこういう風にしよう”という形では直していかなかったんです。それよりもブラックボックスみたいなものがあるんですよ。母親には子どもをものすごく深く愛している部分と、それが行動としてうまく伴っていない部分。それから子どもが母親からいくらでも離れることができたのに、離れなかったのはなぜかということ。映画としては“分からない部分”に向かっていけばいいっていう視点でやっていたので。もちろん手持ちカメラを多用したり、実際の事件のシチュエーションみたいなものを使っていたりするんですけど、そこはまあ、それぐらいだろうと。現場で、その場に俳優さんを置いたときに何が発生するのか? っていうところをやりたいなと思って撮影に入りましたね。
―親子関係のディテールを突き詰めていったということでしょうか?
そうですね。ぼくの映画の作り方でいくと、俳優さんが入るっていうことが大事なんです。たとえば、事実だけを追うのであれば裁判所で手続きしたりできると思うんですけど、そうではなくて。映画にするっていうことは、生身の身体を持った俳優さんが入ってくるということであって、いろんなことに敏感であったり、それを人に見せる表現力を持ってる人たちなので、その俳優さんたちが何を感じたか? ということがフィルムに映ればいいなと。
例えばテントのなかで実際に生活していた親子がいて、2人がどういう風に暮らして、どういう距離感でいたのかという真相を知る方法はありません。だけど映画を作っていくなかで、小さい時の周平と秋子はどういう距離感でいたのか、あるいはそのときどういう言葉を交わしていたのか、それはどういうトーンだったのか……そういった部分は、俳優さんたちが何かを感じることによって生まれてくる。なので、そのとき何が生まれてくるのか? ということがやりたかったんです。それで、もしかしたらあの親子に起きたことに少しだけ触れていけるかもしれない、というスタンスですね。頭や言葉で考えるんじゃなくて、生身の人間が本当に感じることによって生まれてくる何かが、この事件で起きたことにもう少し触れていくことができるきっかけになっていくんじゃないかなって。
「みんなの共通意識にないものを演じる“怖さ”を一番感じていたのは長澤さん自身」
―悲劇的な事件が題材ということで、メンタル的にはハードな撮影だったのではないでしょうか?
撮影現場自体は子どもたちも多かったし、わりと明るい現場でしたよ。いろいろきついシーンもあるんですけど、「よーい、スタート」がかかった瞬間はみんな集中しますが、みんなニコニコしながら撮影してましたよ(笑)。作品から受ける印象と違うみたいで、ぼくの現場に来るとみんなびっくりしますね。
―主演の長澤まさみさんとは、どうやって役を作っていったんでしょうか?
秋子という役は社会的な“何か”を失っている女性で、映画でも描かれているように、ほとんど浮浪者のような姿にまでなって、そして山谷のドヤ街にまで入っていくという。現代の日本の社会で、そういう女性像って共通意識としてみんな持っていないんですよ。だから、すごく難しかったと思う。なんとなく見たことあるなとか、記憶にあるなっていうものすらない状態で演じるのって、すごく大変だと思うんですよ。男性ならイメージもしやすいんだけど女性はなかなか難しくて、長澤さんも多分そこが不安だったと思う。誰もが知っている大スターの長澤さんが、みんなの共通意識にないものを演じるっていう怖さみたいなものは、長澤さん自身が一番感じたんじゃないですかね。
―本作の秋子は、他の映画でも観たことがないようなキャラクターでした。
なかなかいないと思いますよ。特に日本映画は“女の人はこうあるべきだ”というのが多くなってきちゃってる時代なんですよね。だから秋子という役は、みんなの共通意識から外れている部分が割とチャレンジングだなって。エドワード・オールビーの「動物園物語」っていう戯曲があるんですけど、ニューヨークで2人の男性が出会うんです。1人はある種のホームレスみたいな感じで、もう1人はすごくインテリの人。この2人が出会って会話して、それで最後はインテリの方が殺されたりするんですが、これをワークショップみたいなもののなかで、女性でやったことがあるんです。
でも、日本女性がそれをやると成立しないんですよ。みんな共通意識を持てなくて、ちょっと汚い身なりの女性のことをどのように観ていいのかが分かんなくなっちゃって、作品自体が成立しない。そのことがこの映画を作るときに少し引っかかっていて、難しいチャレンジだなと。でも、その部分を長澤さんがどこまでやるのかっていうことが、もしかしたら今の日本社会に割と必要なことかもしれない。だから長澤さんが演じるのは、すごく大きなことだと思うんです。
「阿部サダヲさんが演じることによって役柄のステレオタイプから逃れられる」
―周平を演じた奥平大兼さんはオーディションで選ばれたとお聞きしましたが、最初はどういった印象を受けましたか?
一番最初は理知的だなっていうか、頭よさそうだなって。でもまあ、普通。いい意味でも、俳優として心配になる部分でも、普通の感性を持った子だなと思いました。ただ、役がけっこう大きくて誤魔化しでは作れないので、彼もぼくもそこは頑張らなきゃいけないなと思いましたね。とにかくクランクインする前にほとんどのシーンを練習したりとか、彼だけに脚本と違うことをやらせたりとか。まず人前に立つこと、それから声を出すこととか、カメラの前でどれだけリラックスするかとか、基本的なことからやったので大変でしたよ(笑)。
―撮影を通じて奥平さんの成長を感じた部分はありましたか?
やっぱり一番は、長澤さんと2人きりになってひっぱたかれるシーン。俳優をやっていて、自分が五感を研ぎ澄ませて感じたものが大事なんだということを掴んだんじゃないかな。涙を出そうと思ったわけではなくて、出ちゃったっていうね。心が勝手に動き出した瞬間を味わえているというのは、ぼくもうれしかったし、準備段階から彼に伝えてきたことや彼自身のやってきたことが実った瞬間だったんじゃないのかなって思います。
―もう1人の重要人物である遼を演じた阿部サダヲさんの印象はいかがでしたか?
阿部さんって、なんか柔らかい印象がありますよね。この役を男の人が演じるとハマりすぎちゃうところがあると思うんです。定職に就かないで、半分不良な感じがあって、女性にだらしなくて、でもちょっと魅力的で……って。男の人はイメージしやすいから、やりやすいと思うんですよ。それがハマり過ぎちゃうと、いわゆるステレオタイプの役になっていくというか、安っぽくなるじゃないですか。でも、阿部さんはそういうものからどこか逃れられる感覚があるんですよね。阿部さんは立ち姿が柔らかかったり、歩くだけでも柔らかい感じがあるんですよ。これはもう、ぼくがどんなに演出しようが出ないものですよね。あとは、あのちょっと甲高い声とか、怖そうで怖くなくて、やっぱり怖いみたいな、変な部分があるじゃないですか。揺らいでる部分があるんですよね。それがぼくは好きなんです。実は阿部さんとは同い年なんですけど、やっぱり同時代を生きてきた感覚があって、割と共通する言葉で会話できる感じもありますね。
『MOTHER マザー』は2020年7月3日(金)より全国公開