名前と人生
タイトルを見ただけで内容が予想できる作品ってのはどうなんだろう、といらぬ心配をしてしまったが、杞憂であった。
名前で人生が左右されることがある、という仮説は成り立つのか、映画の内容よりも先にそれを検証してみたい。私は“眞一郎”と名付けられた。仕方なく63年これで通しているが、気に入っていたわけではない。むしろこんな大仰な名前をどうしてつけた、恥ずかしい、と親の心知らずでうんざりしていた。勝手にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎先生から読み方をもらったのだろうと思い込んでいたが、確認したところ私が生まれてしばらくしての受賞だったので「あれ?」と、なぜこの名前になったのかと急に63年のアイデンティティの不安に陥り、慌てて母親に電話した。
「あの頃はね、やたら“一郎”がついた偉い人が多かったんよ。綺麗な顔した政治家、藤山愛一郎とか。まずそれが決まってね、頭に何をつけるか悩んだんだけど、“慎む”じゃねえ。ということになって“眞”をつけたの」
だそう。考えたんだか適当なんだかよくわからない。しかし、結局偉い人になってないわけなんで、名前なんて思い入れがあろうがなかろうが大した問題ではない。ただ、就職してから、なぜか私は年上の人間から「オオクラシンイチロウ!」とフルネームで呼ばれることがしばしばあり、なんとも言えぬ気分になることが多かった。結局、私のことであっても名前で人生が左右されるかどうかはわからないまんま。
このドイツ映画の原題は『DER VORNAME』=「名前」である。そのくらい名前にこだわる内容なので、つまらないことから書き始めてしまった。すみません。
「アドルフ」はタブーか?
ドイツでアドルフといえばアドルフ・ヒトラーくらいしか思い浮かばない。実はアドルフという名は「高貴なる狼」を意味するらしく、第二次世界大戦まではドイツ以外でも好まれてつけられていたという。しかし、戦後ドイツではほとんど命名されることはなくなった。まあ、わざわざ悪夢を呼び起こすような名をつけて悪目立ちさせることもなかろう。命名が禁止されてはいないが、あえて付けようとしてもかなり面倒そうだ。
命名の動機が極右的な意味合いでは許可されない、類系にアドルフという名の人間がいて、その名にちなんで、という場合はオッケー、ということになるそうだが、そういうケースはほぼない、と作品資料に書いてあった。
ある晩、家族で夕食を囲む会が催される。ホストは頭の固い文学教授と国語教師の妻(LiLiCoさんに似ている)。出来が悪かったが不動産で成功した弟と妊娠中のその妻、姉弟の両親に引き取られ、兄弟同様に育てられたオーケストラのクラリネット奏者が集まる。検査の結果、弟の妻のお腹の中の子供は男の子だとわかったという知らせに皆が心躍らせる。
そうなると当然「名前は決めたのか?」という流れになる。人の子供の名前なんか、勝手にさせりゃいいじゃないかと私は常日頃から思っているが、一般的にはそうはいかないらしい。
「あれか? これか?」「ちがーう」「う~ん、じゃ◯◯◯」「ぜーんぜん違う」……というどうでもいいやりとりが続いてうんざりしたところで、“アドルフ”登場。一瞬全員が言葉を失う。
「冗談だろ?」
「本気も本気、ヒトラーの名がアドルフだっただけで、どうしてつけちゃダメ? ヒトラーの呪縛からの解放だ」
「子供のことを考えろ」
「考えてそうした」
終わりなき命名論争は続き、全員疲れ果て、小休止になるが、次第に子供の名前の是非から「人として」論に移り始める。私も経験があるが、つまらないことで口論になって引けなくなると、これまで黙っていた、あるいはこれまで気にもならなかった相手の嫌なところにまで腹が立ってきて、つい口に出してしまう。そこから先は底なし沼のような様相となる。ああ、嫌だ。でも観ている分には面白い。家族ってそういうとこあるでしょ。
実はこういう設定のドラマ映画は特に珍しくないが、名前をメインテーマに持ってきているところが異色である。よくここまで広げ、膨らませ、深みを持たせた。コメディなのに考えさせられてしまう。
この作品はドイツ映画であるが、元々はフランスで舞台となっていたものを、ドイツ人プロデューサーが映画化権を獲得し、監督と一緒に舞台となる場所を変え、セリフを再構築したものである。「ドイツで考案されていたら大きな制約が課せられいたはずで、うまくいかなかったのではないか」という意味のことを語っている。それくらい、ヒトラーの残した爪痕は深い。
独裁者の名前
実はこれも作品資料の中でいとう・ひろみさんが触れているのだが、私も全く同じことを作品を観ながら感じていたので、あえて加えておきます。
ドイツではアドルフ・ヒトラーはダントツで悪の象徴とされている。しかし、翻って我が国、三国同盟の一員であった日本では誰がアジア諸国侵略、太平洋戦争に対して、そして日本を焼け野原にするまで戦争を引っ張ったのかについての責任の所在が未だにはっきりしない。韓国併合を決めた当時の首相・伊藤博文、満州国建国に走った石原莞爾、その後の戦争を主導した東條英機などなど、それからここでは責任問題を議論しないが昭和天皇、そして「勝った勝った」と熱狂した日本国民全員。誰の責任でこんなことになったのかが、戦後これだけの時間が経っているのにはっきりしない。誰もはっきりさせたくなさそうである。
そんな状態で、東條英機の英機という名はタブーになっているかといえば、全くそんなことはなく、私の友人にも英機君はいる。呼び名にすれば秀樹、秀喜、英輝と挙げ始めればキリがない。名前に罪はないということか。戦争責任問題とは関係なくヒロヒトもタブーかな、と推察したが、裕仁をはじめ、宏一、博一、弘人、寛仁と無数に存在した。
では、ヒトラー側近であったハインリヒ・ヒムラーのハインリヒはどうか。調べたところ問題なく命名可能。ルドルフ・ヘスのルドルフも問題なし。パウル・ヨセフ・ゲッペルスのパウルを使うなということになると大変なことになる。じゃ、ヨシフ・スターリンはどうだ。ヨシフはヨセフなんで、これもフツーに使われている。
こうやって付けてはいけない名前を探そうとしても、ほとんど出てこない。アドルフだけ別格である。そうなるとアドルフが可哀想になってくる。そろそろ名前に罪はないんだから許してやったらどうかという気もするが、それをしないのがドイツである。ドイツ国民の過去に対する強い反省の意識を反映している。そういうところを尊敬している。
文:大倉眞一郎
『お名前はアドルフ?』は2020年6月6日(土)よりシネスイッチ銀座ほか全国順次公開
『お名前はアドルフ?』
それは愉快な夜になるはずだった。哲学者で文学教授のステファンと妻エリザベスは、弟トーマスと恋人、幼馴染の友人で音楽家のレネを招いて自宅でディナーをすることになっていた。しかし、出産間近の恋人を持つトーマスが、生まれてくる子供の名前を“アドルフ”にすると発表したことから自体は意外な展開に。「アドルフ・ヒトラーと同じ名前を子供につけるのか?気は確かか⁉」友人のレネも巻き込んだ大論争の末、家族にまつわる最大の秘密まで暴かれる。名前の話はドイツの歴史やナチスの罪に発展し、ヒートアップした夜はどこまで続く……!?
制作年: | 2018 |
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監督: | |
出演: |
2020年6月6日(土)よりシネスイッチ銀座ほか全国順次公開