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ロシアの自殺椅子⁉ デニス・ホッパーの伝説的自殺パフォーマンスも飛び出すドキュメンタリー『デニス・ホッパー/狂気の旅路』

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ライター:#セルジオ石熊
ロシアの自殺椅子⁉ デニス・ホッパーの伝説的自殺パフォーマンスも飛び出すドキュメンタリー『デニス・ホッパー/狂気の旅路』
『デニス・ホッパー/狂気の旅路』ALONG FOR THE RIDE LLC, © 2017

常に誤解され続けたまま一生を終えたアーティスト、デニス・ホッパー

「アメリカでは悪名高い異端児、ヨーロッパでは独創的な天才」と映画『デニス・ホッパー/狂気の旅路』(2016年)で分かりやすく説明されているとはいえ、デニス・ホッパー(1936~2010年)は、常に誤解され続けたまま一生を終えたアーティストだ。

1950年代にハリウッド・デビューし、若気のいたりで映画会社に契約をきられるが、初監督作『イージー★ライダー』(1969年)が大ヒット。『ラストムービー』(1971年)の失敗で再びハリウッドを追放されるが、『ブルーベルベット』(1986年)などで再評価され、2010年に世を去るまでコンスタントに映画出演を続けた。そんな経歴から、ハリウッドの荒波を生き抜いた俳優兼監督と認識されているかもしれないが、それだけではない。

『デニス・ホッパー/狂気の旅路』ALONG FOR THE RIDE LLC, © 2017

50年代後半、兄貴と慕っていた故ジェームズ・ディーンの教え(「映画監督になるなら写真を撮れ!」)を守って写真を始める。もともと絵画もたしなんでいたこともあって、たちまちセンスを発揮して「VOGUE」などの雑誌に作品を発表するまでになる。ハリウッドスターから、アーティスト、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのワシントン大行進に同行した作品などは「Dennis Hopper Out of the Sixties」など何冊かの写真集にまとめられているが、とくに有名なのはイギリスのバンド、ザ・スミスが2枚のベスト盤のジャケットに採用した写真「バイカー・カップル」(1961)だろうか。

画家としての作品はカリフォルニア大火で焼失してしまったが、現代アートを見抜く目は確かで、アンディ・ウォーホルの、かの有名な「キャンベル・スープ」を展覧会で見て気に入り、最初に購入したのがデニス・ホッパーだった。ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、ロイ・リキテンシュタイン、デイヴィッド・ホックニー、エド・ルシェなどアーティストや画家とのの交遊、そして作品コレクションは世界有数なものだった。

『デニス・ホッパー/狂気の旅路』ALONG FOR THE RIDE LLC, © 2017

そして初監督作品『イージー★ライダー』は、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの影響を受けたとホッパー自身が公言するとおり、従来のハリウッド映画とはかけ離れた作品で、アメリカン・ニューシネマの代表作となる。ジャン=リュック・ゴダール風に「カメラを持って外へ出た」のはいいが、ベルモンドのタバコどころか本物のマリファナを吸い、LSDをキメて撮影したのだからハリウッドも驚いたが、映画が世界中で大ヒットしてさらにびっくり仰天した。ちなみに、ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)『気狂いピエロ』(1965年)に登場する役名「ラズロ・コヴァックス」は、『イージー★ライダー』や『ラストムービー』のカメラマンの名である(ハンガリーからアメリカへ亡命する途中パリへ寄ってゴダールと知り合っていたのだろうか……)。

歌や演奏には縁のなかったホッパーだが、その音楽センスは抜群で、『イージー★ライダー』でロック、『ラストムービー』でフォークソングやワールドミュージック、『アウト・オブ・ブルー』(1980年)でパンクロック、『カラーズ/天使の消えた街』(1988年)でヒップホップ、『ホット・スポット』(1991年)でブルースと、常に時代の一歩先を行く選曲で監督作を飾っていた。

『イージー★ライダー』の栄光から一転、奈落の底へ堕ちた“天才”を支え続けた男が語る、500年に一人の天才デニス・ホッパーの真実

『デニス・ホッパー/狂気の旅路』ALONG FOR THE RIDE LLC, © 2017

7歳で『ブルーベルベット』を観てホッパーのファンになったというニック・エベリング監督が、長年ホッパーのパーソナル・アシスタントを勤めていたサティヤ・デ・ラ・マニトウなる人物をガイド役に、デニス・ホッパーの足跡をたどるドキュメンタリーが『デニス・ホッパー/狂気の旅路』だ。エベリングは『ラストムービー』を見て、俳優よりも監督になりたいと思うようになったという。

『デニス・ホッパー/狂気の旅路』ALONG FOR THE RIDE LLC, © 2017

もちろん『イージー★ライダー』で人生が変わった若者は70年代には掃いて捨てるほどいたが、映画監督/アーティストとして、デニス・ホッパーが与えた影響力は徐々に世界に浸透していったようだ。「生涯最高の映画は『ラストムービー』だ」と宣言していたフランスの映画監督ギャスパー・ノエや、ホッパーの影響で監督に進出したショーン・ペンもいた。

いずれにせよ、デニス・ホッパーの映画は一筋縄ではいかない。彼の絵画がすべて抽象画であることからして想像はできるのだが、『イージー★ライダー』『ラストムービー』のジャンプカットやフラッシュ・バック&フォワードのモンタージュ技法、アーティストやアート作品そのものを詰め込んだ『BACK TRACK/バックトラック』(1989年)、女優の裸体にこだわった(かのような)『ホット・スポット』まで、監督作はすべてタイプが違う作品だ、『イージー★ライダー』の続編企画もあったが、結局作られることはなかったし、おそらくホッパー自身もそれでよかったと思っているだろう。

さて、『デニス・ホッパー/狂気の旅路』は、ヴィム・ヴェンダースの『アメリカの友人』(1977年)でニューヨークのハイウェイの上を歩くホッパーに「足元に気を付けなよ、おっさん」と声をかける謎の男を演じていたサティヤのガイドで、知られざる……または噂には聞いていたホッパーのエピソードが次々と紹介される。『ラストムービー』の編集に来たアレハンドロ・ホドロフスキー、8日間で離婚した元ママス&パパスのミシェル・フィリップスからの離婚宣言手紙はアート作品になっている。ニューメキシコ州タオスの住人ともめたいきさつ、撃ち込まれたショットガンの銃弾痕、対抗してマグナムやAK47で武装していたこと、ブルーノ・ガンツとの大ゲンカ、ジョン・カサヴェテスとの関係などなど……。

そしてクライマックスは、なんといってもアルコールとドラッグでおかしくなっていた80年代前半、「ロシアの自殺椅子(Russian Dynamite Death Chair Act)」なるものを知って、やってみたくてたまらなくなって本当に実行してまったという自爆パフォーマンスだ。

これは、椅子に6本のダイナマイトをくくりつけて爆破しても、椅子の下に潜り込んでいれば、爆発の中心部分が真空状態になるのでケガもしないで生還できるという理論にもとずいたもので、「ロシアの自殺椅子」と呼ばれるのは、ロシア革命の際にボリシェヴィキ(革命軍)が殺したくない貴族を救うために編み出した方法だからなのだという。

最初はオレゴン州ポートランドでトライして成功、調子に乗ってテキサス州ヒューストンのライス大学で開かれた『アウト・オブ・ブルー』上映会の後にも「映画宣伝の一環」として再現し、その際の映像を見ることができる(観客の中にはヴィム・ヴェンダースや当時学生だったリチャード・リンクレイターもいた)。

『デニス・ホッパー/狂気の旅路』ALONG FOR THE RIDE LLC, © 2017

『ラストムービー』でスタントマンを演じていたホッパーにとって、映画製作も映画宣伝もスタントも、同じ「命がけ」のものだったのかもしれない。

『デニス・ホッパー/狂気の旅路』で、クリスティーナ・フラー(『ラストムービー』の劇中映画監督を演じた映画監督サミュエル・フラーの奥さん)が印象的な言葉を残している。

「芸術的ですごく苦しんでいる繊細さ……ゴッホ・クオリティを感じた」

演技者、映画作家、画家、写真家を超え、パフォーマーとしても常識の外側へ飛び出していたデニス・ホッパーは、まさに20世紀が生んだ稀有なアーティストだったのだ。

『デニス・ホッパー/狂気の旅路』は2019年12月20日(金)より新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー

『デニス・ホッパー/狂気の旅路』ALONG FOR THE RIDE LLC, © 2017

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『デニス・ホッパー/狂気の旅路』

ハリウッドの異端者にして、いくつもの顔を持つアーティスト。デニス・ホッパーの激動の半生を、彼の旧友の視点から振り返る。

制作年: 2016
監督:
出演: