ホロコーストを生き抜いた老齢の仕立て屋
ポーランドに生まれたユダヤ人のアブラハムは、ホロコーストを逃れて移住先のアルゼンチンで長年働いてきた。仕立屋を畳むことになり、人生の終(しま)い方を考える88歳。妻は世を去り、子どもたちの巣立った彼に、唯一残された相棒は“ツーレス”だけ。ラテン語で「Problem」を意味するツーレスとは、ホロコーストで傷つけられた不自由な足の名だ。
この先あと何年生きられるのか。最後に居たい場所とはどこなのか。彼の場合、少年の頃に別れた親友が暮らしているはずの生まれ育った家に帰ること。家族を見送った彼は、自分で仕立てた1着のスーツを手に、足を引き摺りながらタクシーに乗り込む。
最初に向かうのは、ブエノスアイレスにあるユダヤ人たちのギルドだ。雑然とした雑居ビルには様々な商店や機械、商材が密集している。彼らユダヤ人たちはこのギルドを拠点に共に助け合ってきたのだろう。チケットを手配するのは旅行会社の孫娘で、舞台稽古中のダンサーという案配だ。この爺さんはなかなかのしたたか者。マドリッドに向かう機内で隣の青年にやたらに話しかけ、快適な長旅では欠かせないエコノミースイート(三席独り占め)を確保する。かと思えば、入国審査で困った青年には金を貸し、年配者を敬えと諭したりもする。安ホテルの女主人には旅行会社の視察と称して料金交渉する抜け目のなさ。
マドリッドでパリ行きの特急に乗り遅れ、宿の主人が歌うサロンでひとときを過ごす。だが、予期せぬ空き巣に持ち金すべてを奪われて大わらわ。頼れるのは、この地に住む仲違いして絶交中の娘のみ。さて、どうする。
パリ駅で急行に乗るシーンも絶妙だ。目的地である「ポーランド」に行きたい。でも、自分たちを苦しめた「ドイツ」を通りたくない。ふたつの国名を記したメモを見せて経路を確認するのだが、フランスの係員には通じない。そんな時、「それは無理よ」と歴史を学ぶドイツ女性が声を掛ける。口を利こうともしない老人に、「私たちドイツ人も学び、変わっている」と伝える彼女は、決してドイツの地を踏みたくないと言い張る彼のためにある秘策を提案する。
ワルシャワへと向かう特急列車に乗り込んだのは良かったが、車内では耳にしたくないドイツ語が飛び交う。逃げても逃げても、少年時代の深い記憶のトラウマが襲いかかってくる。息が詰まり目の前が真っ暗になった先には……。
人生に最終ゴールがあるとしたら、自分だったらどこに向かうのだろう。
南米からヨーロッパへ、少年期に離れ離れになった親友との再会を願う88歳の一人旅は、避けてきた忌まわしい戦争の記憶と向き合う茨の道の連続だ。傷ついた自分を救ってくれた親友の思い出は、二度と味わいたくない苦渋に満ちた、決して消え去ることのない心の傷を呼び起こす。だが、旅の途中で出会う人々のいたわりが内なる苦痛を和らげ、固くこわばった心を柔らかく包み込んでいく。
パブロ・ソラロス監督は、自分を支え続けてくれた親友の元へとまっすぐに突き進む老人の“終いの旅”に重ねて、“戦後”への向き合い方をユーモラスに投げかける。戦後をめぐる心の旅路、その出会いが清々しく胸を打つ。そして、友に届ける1着のスーツが、仕立屋として生きた彼の人生を浮かびあがらせる。
文:髙橋直樹
家へ帰ろう
ブエノスアイレスに住む88歳の仕立屋アブラハムは、スペイン・フランスを経てポーランドへと向かうための旅に出る。第二次大戦中のホロコーストから逃れ、自分の命を救ってくれた親友に、自分が仕立てた“最後のスーツ”を渡すためだった。
制作年: | 2017 |
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監督: | |
出演: |