【映画宣伝/プロデューサー原正人の伝説 第10回】
日本ヘラルド映画の伝説の宣伝部長として数多の作品を世に送り出すと共に、宣伝のみならず、映画プロデューサーとして日本を代表する巨匠たちの作品を世の中に送り出してきた映画界のレジェンド原正人(はらまさと)。全12回の本連載では、その原への取材をベースに、洋画配給・邦画製作の最前線で60年活躍し続けた原の仕事の数々を、原自身の言葉を紹介しつつ、様々な作品のエピソードと共に紹介していく。
原への取材および原稿としてまとめるのは、日本ヘラルド映画における原の後輩にあたる谷川建司。第10回目の今回は、ヘラルド・エースでの多様な邦画製作の経験を経て、いよいよ38年間在籍したヘラルドを離れ、新たに角川書店との資本提携によってエース・ピクチャーズ設立へと歩を進めた原正人が、その大ヒットによって確固たる地位を築いた節目の作品、『失楽園』プロジェクトの詳細をご紹介しよう。
原作の連載と同時進行で始まった映画製作
渡辺淳一といえば、過激な性描写をふんだんに含む小説で多くの男性読者を獲得し、中年男性のファンタジーを具現化したような作品の数々で一世を風靡した作家だが、彼の作品は映画との相性が良く、『ひとひらの雪』(1985年)、『化身』(1986年)、『桜の樹の下で』(1989年)といった東映作品、そして松竹の『遠き落日』(1992年)と頻繁に映画化されてきた。その渡辺淳一の新たな連載小説「失楽園」が日本経済新聞朝刊に連載開始されたのは1995年9月のことで、連載中から大変な評判となっていた。
その約半年前の1995年4月、原正人は新たに角川書店の資本下に入る形でエース・ピクチャーズを立ち上げていた。日本ヘラルド映画からの暖簾分けの形で立ち上げたヘラルド・エースを率いて10年、大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』(1983年)、篠田正浩監督の『瀬戸内少年野球団』(1984年)、そして黒澤明監督の『乱』(1985年)といった巨匠の作品を次々と世に送り出した一方で、もう一つの柱のアート系作品のマーケットがライバル会社の乱立や商社の参入などによる買い付け価格の高騰、単館ロードショー劇場の売り上げ目標値の上昇などによって、資本力の弱いヘラルド・エースのままでは立ち行かなくなった中での、角川グループ資本下での増資、新会社設立という経緯だった。
親会社となった角川書店の角川歴彦社長(当時)が、そんな原正人の新生エース・ピクチャーズに提案してきた映画化企画第一弾というのが、連載開始したばかりの「失楽園」だった。既に過去の渡辺淳一作品映画化の実績が多かった東映での映画化が計画されていたものの、東映・岡田茂社長(当時)の「角川に預けた方が得策」との判断により、エース・ピクチャーズを核に、東映を含む複数企業による製作委員会が立ち上がった。
原は、かつて日本ヘラルド映画で『エマニエル夫人』(1974年)の伝説的な大ヒットをものにした実績があったから、リストラされた中年男が人妻との性愛にのめり込むというエロティックな原作の映画化であればお手のものという判断が、あるいは角川社長側にはあったのかもしれないが、二人はとことん話し合った中で、シンプルかつ明確なコンセプトを定めた。
歴彦さん自身、兄の春樹氏との確執によって一度は角川書店から出ざるをえなかった人です。僕自身も38年間仕事をしてきたヘラルドから出ました。お互い、盤石だと思っていた基盤がゆらぐ、その時の孤独感を経験してきて、主人公とどこか共通する気分を感じていました。そこで、自分が今まで確かだと思っていた組織や家族といったものがきわめて不安定に感じられたとき、人はどう生きるのか、というテーマでこの作品を斬ったらどうなるんだろう、中堅サラリーマンに対する一種の応援メッセージのようなものがあるんじゃないかと、二人の思いが一致したのです。
こうして、原作の連載と同時進行の形で、製作総指揮・角川歴彦、プロデューサー・原正人というコンビでの映画版『失楽園』のプロジェクトが動き出した。
スタッフ編成とキャスティングの妙味
中年男性への応援メッセージといっても、実際に映画館へ足を運んでくれる層として、そのまま彼らをターゲットには想定できない。女性観客が来てくれない映画は当たらない、というのはある意味この時期の(あるいは今でも)映画界の常識だったから、スタッフ編成、そしてキャスティングに関しては何よりもまず女性に受け入れてもらい易い人選が必要となる。つまり、中年オヤジのエロ目線ではなく、きれいな雰囲気やムードで、文学的な香りの高い、うっとりするようなエロティシズムを感じさせる作品を目指そうということ。――これは『エマニエル夫人』を大成功に導いたのと同じ売り方ということになるが、日本映画でそれを実現できるスタッフ、キャストとは誰だろうか? 最も根幹の部分は当然、監督だが、何人か候補が上がった中で、独特の映像センスで知られる森田芳光で行こうというのが原のアイディアだった。
森田が8mmで撮った最初の作品『ライブイン・茅ケ崎』(1978年)を、作家・片岡義男さんの推薦もあって角川春樹さんが見たいと言うので、ヘラルドの試写室でお二人に見せたんです。8mmですから、「これが35mmだったら……」というのが角川さんからの反応でした。その後、しばらくして森田監督自身が、『の・ようなもの』のシナリオと、スポンサーとして3千万円出してくれるという若い人を連れて僕を訪ねてきました。みんなの意見で、この題材ではちょっと配給は難しい、と言ったら、森田は「原さんは新しい才能の芽を潰すんですか!」と噛みつくんだよ。森田のそんなキャラクターが面白くてね。結局、配給を引き受けることにして、渋谷の東急名画座でチケット代995円で公開しました。またご縁がありますようにって、5円のお釣りを出してね。
森田の商業映画監督デビュー作『の・ようなもの』(1981年)の配給をヘラルド時代の原が引き受けた背景には、こうした若き日の森田の怖いもの知らずの売り込みがあった訳だが、原には、その後の森田作品を見てきた中で、森田は「深刻な題材を軽やかに撮れる人」だという確かな感覚があり、だからこそ『失楽園』の監督に相応しいのではないか、と直感していた。……それが14年振りの“ご縁”として結実することとなった訳だ。そして、『失楽園』公開の1997年から更に13年後の2010年には『武士の家計簿』で三度、原=森田のコンビは大ヒットを放っている。
話を『失楽園』に戻すと、監督の次は脚本家選びだ。最初に依頼したある男性脚本家による脚本は原も森田もしっくりこず、森田の提案で女性脚本家・筒井ともみに依頼することになり、繊細な視点を持つロマンティックな脚本が出来上がった。いよいよキャスティング段階になり、原の言うところの“汗臭さがなく、透明感のある”主人公二人を誰にするか、ということになった時、男性の方は役所広司しかいない、と原は彼ひとりに絞ってオファーしたのだという。
しかし最初、彼がエース・ピクチャーズの事務所に来たときには、僕と森田監督が二人で待っていたのですが、役所さんは「断るつもりで来た」と言うのです。「電話でマネージャーに断らせたら失礼なので自分が直接断りに来たのだが、森田監督には一度会ってみたかった」と。……役所さんはその時まだ40歳くらいでしたが、映画の主人公は53歳でした。それが断りの理由でした。
この役を演じるにはまだ自分は若すぎるという気持ちは、逆に言うと企画そのものや役自体に興味がない訳ではないということを示していたので、原と森田は二人がかりで口説いて、役所広司は帰りには出演を承諾していた。
女優の方は、日本経済新聞に「凛子役には誰がいいか」を問うアンケート募集広告をうち、読者の支持の高かった黒木瞳が原にとってもイメージ通り、ということでオファーがなされた。黒木ははじめ慎重な構えで、監督とひざを交えて話し合いたいという希望を出した。というのも、原作の豊満で女性的な肉体とは自分は程遠いので、それでもよいのか、監督はこの身体でどのようなラブシーンを取りたいのかを確認したかったのだという。つまり、マリリン・モンローに相応しい役柄をオードリー・ヘプバーンが演じる場合のようなギャップが、このキャスティングにはあったということ。
監督との話し合いで、この映画の狙いをきちんと把握して納得した黒木瞳は出演を承諾し、ここに、女性観客を意識した、リストラされて人生の意味に悩む中年男と、肉体の悦びに封印をしていた美しい人妻との、エロティックでありながらもピュアなラブ・ストーリーとしての『失楽園』というコンセプトに見合う完ぺきな体制が整った。
徹底的に洋画的な手法で売った宣伝キャンペーン
出来上がった作品は、原作から想像されるような濃厚なエロティシズムが無く、それまでの渡辺淳一原作による東映作品の対極にあるような美しいラブ・ストーリーに仕上がった。マスコミ関係者などは期待したものと違うことから、「肝心なものが欠けているから『欠落園』だ」などと陰口を叩いていたものの、確信犯的にその方向での映画作りを進めていた原にとっては、それもある程度織り込み済みの批判に過ぎなかった。
宣伝はヘラルド・エース時代からの原の右腕の女性宣伝プロデューサー・木幡久美が担当し、ポスターのキー・ビジュアルやタイトル・ロゴなどは徹底的に洋画っぽい洗練された路線で統一、雪の中を寄り添って歩く二人を用いたポスターや広告で美しさを強調した。普通、邦画でエロティックな要素がウリの作品の場合、宣伝展開の中で小出しに情報をマスコミに提供し、最後に濡れ場のスチール写真を出して大々的に取り上げてもらう、という売り込み方をするものだが、木幡率いる宣伝チームは「裸は一切宣伝には使わない」という戦略で女性客に敬遠されるイメージを持たれないように細心の注意を払った。
役所広司が心配していた年齢の問題は、髪の毛に白い物を加えた役づくりで誰もが納得していたが、ポスターなどにも堂々とその白髪交じりの、やや疲れた中年男としての役所広司のイメージをビジュアルに用いている。正反対の例として、リチャード・ギアとジュリア・ロバーツの大ヒット作『プリティ・ウーマン』(1990年)のポスターの例が挙げられる。
こちらは、映画の中ではシルバー・ヘアーの中年の紳士ギアが高級コールガールだがピュアな心を持つロバーツと結ばれるまでを描いていたが、ポスターでは年齢のいった主人公では若い観客に敬遠されるだろうとの判断で、ギアの髪の毛の色が黒々と修正されていたのだ。それだと、口髭の無い時代のチャールズ・ブロンソンの作品のポスターに髭を付け加えるのと同じく、原の戒めていた“嘘”になってしまう。だが、役所広司が実年齢より上の役作りで白髪交じりの髪にしているのは映画の中では「本当」なのだから、ポスターも当然そうすべきなのである。――『欠落園』だという悪口に対して原は、こう述べている。
どんな映画にも必ず欠陥はあります。だから、悪いほうから見ていくといろんなものがダメに見えます。しかし良いほうから見始めると、みんな良く見えるのです。そういう意味で、宣伝プロモーションは一種の確信犯のようなもので、作品を支持して、関係者をどんどん巻き込んで、ぜったい当たるんだという暗示をお互いに掛け合うことが大切なのです。それがプロデューサーの仕事であり、またヘラルド映画の宣伝部時代からずっとやり続けてきたことでもあります。
結果的に、1997年5月に公開された映画『失楽園』は女性観客の圧倒的な支持を得て、この年の邦画の年間興行収入ランキングでは『もののけ姫』に次ぐ、興行収入45億円(配給収入23億円)の第2位、洋画を合わせても第4位という大成功を収めた。渡辺淳一原作の過去の映画化作品では10億円に届いたものは無かったから、正しく“原マジック”そのもの。――明確なコンセプトを定め、理想通りのキャスティングを実現させ、マーケティングを完璧にコントロールして『失楽園』という作品を世に送り出したことで、新生エース・ピクチャーズの船出は完ぺきなものとなり、タイトルの『失楽園』はその年の流行語として選ばれたのだった。
文:谷川建司
第10回:終
日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン
『エマニエル夫人』『地獄の黙示録』『小さな恋のメロディ』など、日本ヘラルド映画が送り出した錚々たる作品の宣伝手法、当時のポスタービジュアルなどを余すところなく紹介する完全保存版の1冊。
著・谷川建司 監修・原正人/パイ インターナショナル刊