これは近年レアな異色、堀出し、北欧篇!【惹句師・関根忠郎の映画一刀両断】
過日、トンデモナイ映画に出会ってしまった。『アダムズ・アップル』(英題『ADAM’S APPLES』/2005年)というタイトルの映画である。たまたま友人に誘われて、作品については迂闊にも何ひとつ知らないまま超満員の試写室に駆け込んだ。
映画ライターという仕事柄、いつものことならあらかじめオーヨソの作品情報を仕入れてから映画を見ることにしているのだが、今回は珍しく100パーセント白紙のまんま。なにせナジミの薄い(失礼!)デンマーク&ドイツ産の映画だったせいか、タイトルの確認すら怠って隅っこの座席に着いた。
ところが! 不意を喰らった。作品を観たあと暫し呆然。笑うも唸るも驚くも──ギョギョギョの過激94分間! 奇妙奇天烈でオマケに容赦なく、マジでキョーレツな人間劇の展開に呆気に取られた。えッ! コレってナニ!? 面白い!!
人里離れた教会に現れたのは、凶気ムンムンのネオナチ男!
開巻、最初に目に映ったのは、美しく平穏そのものの丘の上の小さな教会。さあここで心安らぐ癒しの物語が始まるのかと思いきや、ツト現れたのが容貌魁偉、スキンヘッドの暴力性に満ち満ちたネオナチ前科者のアダム。
迎えるは中年の聖職者イヴァンと、イワクありげな中東系移民の若者カリドと異様に太った白人男グナー。カリドはどう見ても狂気を孕んだ元犯罪者。グナーは挫折したアルコール依存症の元テニス・プレーヤー。そうそうもう一人、妊娠した中年女サラ。やがて生まれる子どものことで、なぜか異常なまでの恐怖感を抱いている。皆が皆、一様に「ヘン」なのだ。それも露骨に奇ッ怪に……。
アダムが仮釈放されて此処にやってきたのは、犯罪者としての更生を図るため。牧師イヴァンはアダムをリッパに社会復帰させる役目を負う。登場人物が揃った。もう冒頭からヤバイ空気が漂い始める。はてさて、これからイッタイ何がオッパジマルのか。映画を観る者は不吉な予感に捉われて妙にワクワクさせられる。映画の見事な滑り出しに思わず引きずり込まれてしまうのだ。久々に見る典型的なシチュエーション・ドラマ。この状況設定には映画ファンならずとも、ついつい身を乗り出してしまうこと請け合いだ。平穏そのものの教会に毒気の強い異物がひとつ投げ込まれた! さて、その場にいったいどんな化学反応が引き起こされるのか。思わずケタの外れたブラック劇への予感でいっぱいになる!
みんな迷子でクセ者同士、混乱必至の哄笑噴出
たった5人の登場人物(もう一人、近隣の老医師を加えれば6人)、他には誰も出てこないのだが、ここも人間さまざま、我々一般社会と何ら変わるものではない。一つの社会、一つの世間。みんなそれぞれ内なる罪・悪、傷、性情を抱え込んで息を繋いでいる。自分という、他人という、ひどく厄介な扱いにくい存在に耐えながら、何とかより良い関係を願いつつ。
しかし人間、身体が別なら心も別々。この教会もまた、心を蝕まれて荒ぶる歪んだ者たちによる、シンボリックな「人間たちの生きる場」だ。まして教会の聖職者が、たった一人で刑務所あがりや道をハズした人間たちを預かって、社会的更生を図るという状況劇。観客はおいそれと調和のとれない人間闘争を予測しながら、「ホラ見ろ」と呟きたくて、思わず意地悪く舌なめずりをしてしまう(映画鑑賞って高みの見物みたいなところもアリマスからね)。
《狂聖イヴァン》VS《狂暴アダム》の果てしなき戦い
教会の庭に、立派な林檎の木が一本立っている。アダムはイヴァンに言う。「ここで俺は林檎を育て、アップルケーキを作ってやる」なんてことを。本心かどうかは知れたものではない。単に木を見ての思いつきか、それとも実際に刑務所でケーキ作りをマスターしていたのか(ネオナチズムと凶暴さと林檎の木とケーキ作りというリンクが突拍子もなくて、何だかこの奇妙な取り合わせアイデアが面白くってついつい笑い声を発してしまう)。
そして一方、聖職者イヴァンは徹底した神の下僕となって、アダムの更生にアプローチして必死の善導に励んでいく。しかし、タガの外れたイヴァンの説教などテンから受け付けないアダム。イヴァンは度重なるアダムの暴力に瀕死の重傷を負いながらも、そのたびに立ち上がり、愚直なまでに神への信仰を説いて必死にアダムに食い下がっていく。どこか人間自体が壊れているような聖職者だ。アダムの執拗な破壊的暴力を浴びながら、何度も何度も甦るイヴァン。それはイヴァンの過去に底知れぬニガイ秘密があったのだが、ここではネタバレになってしまうので伏せておこう。観客は今暫くの間、互いに相容れない過剰人間同士の果てしないバイオレンスをジッと見つめなくてはならないだろう。
謎めいた理不尽な試練が次々襲う究極のホラー的クライマックス
トドメはまさに突然、降って湧いたような天変地異的凶事の襲来だ。ある日突然、この教会の建つ牧歌的な丘陵が、何の前触れもなく暗雲に閉ざされ、雷鳴がとどろき、不吉なカラスが襲来し……と、ここまで描いたところでキーボードを叩くことを止めにしよう。映画は一転、ダークなホラーの様相を呈して見る者を驚愕させるが、しかしこの強烈なディストピア・タッチは秀逸だ。このボルテージがいやが上にも高まるクライマックスの結果はコレまたヒミツ。
その代わりに本作のキーワード、「ヨブ記」について少々触れておこう。旧約の「ヨブ記」では、古くから人間社会の只中に存在していた神の裁きと、様々な人間苦に関する問題に焦点が当てられている。この文脈には、正しい人に望まざる悪いことが起きるという観点から、つまり取りも直さず「善人の苦難」というテーマを扱ったものに他ならない。本作の登場人物たちは、必ずしも善人とは言い切れないが、映画ではかなり強引にこのテーゼを嵌め込んでいるようだ。いま、現今の世界はあちこちで紛争を繰り返しつつ、崩壊危機の試練を受けている。
寓話(ファルス)の向こうに透視するA・T・イェンセン監督の意図
ハイテクノロジーのさらなる進化とデジタル・ネット社会、その他もろもろの事由と現象によって、国の基幹の政治・経済も、細りゆく文化芸術も、さらにさらにより複雑化していく世界的混沌のさなかで、分断分小化が止まらない。世界的グローバル・システムの役目が終焉して、そのあとに齎されたものは、各国各人それぞれの自国・自分ファーストへの傾斜。さて、そこで新たなる連帯・融合の予兆は何処に……。
かくの如き現世界を透視するかのようなアナス・トマス・イェンセン監督は、この作品を15年前に作っていた。しかも、ファルスとホラーの興趣を巧みに使い分けて。これは悲観的言辞では決してないが、人間どこまで行っても無明の生きもの。遠い北欧デンマークから日本に14年ぶりに届いて陽の目を見た奇篇。登場人物は皆それぞれに愛おしい。
本作の面白さは、過剰人間の乱反射を、曲者揃いの熟練演技陣によって、さらなるエキサイティングな劇的興奮を保証しているところにある。無限の絶望か、救済への希求か。映画は観客の一人一人に大きな余白と静かな余韻を残して、エンドマークを打っている。「林檎は苦いか、酸っぱいか……」齧ってみなけりゃ分からない。この映画、ただのファルスと片付けては勿体ない。
文:関根忠郎
『アダムズ・アップル』は2019年10月19日(土)より新宿シネマカリテにて公開後、全国ロードショー
『アダムズ・アップル』
仮釈放されたスキンヘッド男のアダムは、更生プログラムの一環で田舎の教会へ送られる。指導役の聖職者イヴァンは快く迎え入れるが、ガチガチのネオナチ思想に染まったアダムは神も人の情けも信じていない。ここで取り組むべき目標をイヴァンに問われたアダムは、教会の庭のリンゴで「アップルケーキを作る」とその場しのぎの答えを返す。だが、この教会はどこかおかしい。ここに住みついた2人の前科者、パキスタン移民のカリドとメタボ男のグナーも、実は悲惨な人生を歩んできたイヴァンも…。アダムはイヴァンの自己欺瞞を暴こうとするが、時同じくしてアダムのアップルケーキ作りを妨害するかのように、災いが次々と教会に降りかかる。それは悪魔の仕業か、それとも神が人間に与えた試練なのか……。
制作年: | 2005 |
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監督: | |
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2019年10月19日(土)より新宿シネマカリテにて公開後、全国ロードショー