内戦の地リベリアを舞台に少年兵たちの非情かつ過酷な運命を描いた『ジョニー・マッド・ドッグ』のジャン=ステファーヌ・ソヴェール監督の最新作、囚人ムエタイ映画『暁に祈れ』を格闘技ライター・橋本宗洋氏が解説!
祈り、そして贖罪としての“ムエタイ”
『ジョニー・マッド・ドッグ』(2007)のジャン=ステファーヌ・ソヴェール監督最新作『暁に祈れ』は、刑務所映画としても格闘映画としても一級品だ。
実話の映画化であり、主人公は麻薬に溺れ、タイで逮捕され現地の刑務所にぶち込まれたイギリス人ボクサー、ビリー。全身刺青の囚人に囲まれながらの“地獄めぐり”を描く前半で観客もグッタリさせられるだけに、そこでサバイブするための囚人ムエタイマッチがメインとなる後半の希望も際立つ。といってもあくまで“地獄の中での希望”なのだが。
この手の映画は、主人公をいかにも被害者のように描いてしまうと失敗するわけだが、本作はビリーが犯罪者でありロクデナシであり、気弱なくせに(だからこそ、か)自分の中に棲む獣を飼いならせていないことにしっかりと目を向ける。
そういう男が、自分の人生、内なる獣とどうにか折り合いをつける術が、本作後編における格闘技=ムエタイなのだ。冒頭で描かれる、獣を解放するかのようなシャバでの格闘シーン(ここでの試合はムエタイではなく、グローブを着けずに闘うラウェイだ)とは大きく違う。
つまり格闘技の意味合いが、一般的な“成り上がり”や“自己実現”ではないと言っていい。クライマックスの試合シーンは、リングに向かうビリーを追う長回しも含め異色の仕上がり。充分すぎるほどに壮絶でありながら、静けさや寒々しさもある。それはビリーにとってのムエタイが、タイトル通りの“祈り”であり、また“贖罪”でもあるからだろう。『レイジング・ブル』(1980)ではないが、映画における格闘シーンでは、殴ることと同様かそれ以上に殴られることが重要な場合もある。
ムエタイの真骨頂“首相撲”をじっくり描く理由とは?
格闘技描写には、出だしからニヤリとさせられる。試合前、セコンドの少年(彼もまたファイターだ)にビリーがタイオイルを塗りこんでもらい、体をほぐすという場面だ。これは監督の「細部もおろそかにはしないよ」という宣言に思えた。
試合やトレーニングの場面では、ムエタイ特有の技術である首相撲が全面フィーチャーされる。相手に組み付き、体勢を崩してヒザ蹴りを叩き込んだり転倒させるテクニックだ。ムエタイ、キックボクシングの世界においてタイ人ファイターと、日本人~欧米人など非・タイ人ファイターの差が最も大きいのがこの首相撲。何らかの形で首相撲を攻略しなければ“打倒ムエタイ”は不可能だと言っていい。
ビリーはその首相撲に、刑務所内のジムで真っ向から取り組む。ビリーを演じるジョー・コールのシャドーボクシングやミット打ちはタイ人に比べると決して奇麗ではないのだが、逆にそれが「一から学んでいる」というリアリティにつながっている。
刑務所内マッチ1戦目、ビリーが相手に組み付き、転倒させることで勝機をつかんでいくのは象徴的だ。タイの国技ムエタイ、その真骨頂である首相撲で勝ちにいくということは、彼が置かれた環境に(反抗したり嘆いたりするだけでなく)順応し、克服していこうとする姿勢そのものなのである。
『暁に祈れ』は、格闘技の技術とキャラクター描写とテーマが見事にかみ合った映画だ。祈りと贖罪の闘いを経て、ビリーは自分の人生にどう折り合いをつけたのか。それはラストカットで明らかになる。
文・橋本宗洋
『暁に祈れ』は映画専門チャンネル ムービープラスで2021年2月放送