【映画宣伝/プロデューサー原正人の伝説 第4回】
日本ヘラルド映画の伝説の宣伝部長として数多の作品を世に送り出すと共に、「宣伝」のみならず、映画プロデューサーとして日本を代表する巨匠たちの作品を世の中に送り出してきた映画界のレジェンド原正人(はらまさと)。――全12回の本連載では、その原への取材をベースに、洋画配給・邦画製作の最前線で60年活躍し続けた原の仕事の数々を、原自身の言葉を紹介しつつ、様々な作品のエピソードと共に紹介していく。
原への取材および原稿としてまとめるのは、日本ヘラルド映画における原の後輩にあたる谷川建司。ヘラルドは1956年から半世紀の間存在した洋画配給会社で、半世紀の間に様々な作品を世に送り出してきたが、原率いる宣伝部が最も傾注してきたことの一つとして”作品のコンセプトを明確に定めて、その方針に沿ったデザインで作品をアピールしていく”、という方針がある。連載第4回目の今回は、斬新なポスターのアートワーク等で、日本国内のみならず、全世界で称賛されたヘラルドのクリエイティブ力に関連するエピソードを紹介したい。
「宣伝部は優秀な武器を作らなきゃいかん。営業先の映画館主に“欲しい!”と言わせなきゃ」
ヘラルドのような洋画配給会社というのは、基本的には海外の映画祭や映画マーケットに出向いて「これはっ!」と思う作品を買い付けてきて、その作品を日本で売り込む上でのコンセプトを定め、邦題を決め、ポスターなどのデザインや惹句を決め、世の中に送り出すのが仕事。それは第一義的には日本の興行マーケットに合わせて行われるわけだが、ヘラルド宣伝部を率いた原正人は次のように語っている。
「僕は、”宣伝部は戦略宣伝部であるべきだ”っていうことを言った記憶がありますね。要するに営業マンが陸軍だとすれば、そこを攻めて行く前に爆撃かけて叩いておかないといけない、ブロックバスターしとかなきゃいけない、って言って。それで戦略宣伝部構想みたいなことを社内的にも業界的にもアピールした。だから宣伝部は優秀な武器を作らなきゃいけない、いいポスターやプレスを作らなきゃ。コンセプトをちゃんとしなきゃいかん。それで営業マンがセールスに行った時に、館主に『それ知ってる、欲しい!』って言わせなきゃいかんという、そういう意味での宣伝部戦略部隊だね」
ヘラルドが虫プロとの共同作業で製作・配給したアニメというのが3本あるが、興行的には、順に『千夜一夜物語』(1969年)は大ヒット、『クレオパトラ』(1970年)は期待外れ、そして『哀しみのベラドンナ』(1973年)は大惨敗を喫し、虫プロ倒産の時期とも重なって制作が難航した。だがしかし、その『哀しみのベラドンナ』は、挿絵画家・深井国の水彩画をフィーチャーし、作画監督として杉井ギサブローを起用したその芸術性が高く評価され、今日では早すぎた傑作という評価が定着しており、原自身も「愛着のある作品の一つ」と言う。そしてそれ以上に、『哀しみのベラドンナ』のポスターは特に海外の映画人たちから「ほしい、ほしい」と引っ張りだこだったという。
トビー・フーパー監督を悔しがらせた!? 日本オリジナルの宣伝ビジュアル
また、時としてポスター・デザインなどは本国でのそれよりもはるかに優れたものとして、当該作品を作ったプロデューサーや監督などから、海外配給においても日本のデザインを使わせてほしい、と頼まれることすらある。
これは、原がヘラルド本社宣伝部から独立し、ヘラルド・エースを設立して社長をしていた頃のケース(谷川が宣伝部にいた頃)だが、ヘラルド宣伝部が制作したホラー映画の鬼才トビー・フーパーの『スペースバンパイア』(1985年)のイラスト・ポスターを制作会社キャノン・フィルム側が気に入ったため東南アジア配給でも使用されている。
同じくキャノン製作、フーパー監督の『スペースインベーダー』(1986年)で、劇中に登場する球体のエイリアンのイラストを、『スペースバンパイア』の時のポスター・デザインとの連続性を視覚的に見せるため、前作のイラスト同様に宇宙空間をエイリアンが飛んでいるものをヘラルドのクリエイティブで作ったところ、続くキャノン/フーパーの第3作『悪魔のいけにえ2』(1986年)の宣伝キャンペーンで来日したフーパー監督が「映画の中でもモンスターたちをこのイラストみたいに飛ばせばよかった!」と悔しがることしきりだった。
トビー・フーパーの監督デビュー作『悪魔のいけにえ』(1974年)を第1弾とするヘラルドの“悪魔シリーズ”は原宣伝部時代のゲテモノ映画の系譜だが、ヘラルドではそのフーパー監督のほとんどの作品を配給しており、1人の映画作家の系譜をトータルでコーディネートしたケースでもある。
ほかにも、たとえばフランシス・フォード・コッポラ畢生の大作『地獄の黙示録』(1980年)では、滝野晴夫のイラストをデザイナー石岡瑛子が監修したB倍判(縦1,030mm×横1,456mm)の2種類の特別ポスターを制作したが、その仕事が縁を結ぶ形となって、石岡はコッポラの監督作品『ドラキュラ』(1992年)の衣装デザインを担当することになり、ご承知の通りアカデミー賞衣裳デザイン賞を見事受賞したのだった。『地獄の黙示録』については1冊の本になるくらいに沢山のエピソードがあるので、それはまた回を改めて紹介したい。
なぜ『小さな恋のメロディ』は日本でだけ大ヒットしたのか?
今回紹介するエピソードの最後に、世界中で唯一、日本でだけ大ヒットした作品としての『小さな恋のメロディ』(1971年)を挙げておきたい。これはその後コロンビア映画の会長を経て英国映画界の重鎮として“ロード(卿)”の地位にまで上り詰めたデヴィッド・パットナムの初プロデュース作品で、脚本をこれまた後の監督作品『ミッドナイト・エクスプレス』(1978年)で英国アカデミー賞脚本賞を取ったアラン・パーカーが初めて手掛けたという作品。しかし、本国イギリスではテレビ放映だけ、アメリカでもヒットとはならなかった。
初プロデュース作品の不振に、映画をやめて元の広告代理店の仕事に戻ることまで考えていたパットナムは、日本のヒットの様子を知りたいと来日。満席の劇場を実際に目にして、自信を取り戻したと後に語っている。パーカーも「どうしたことか、日本でだけは違った。私は今でも、東京や大阪にいるこの映画のファンから手紙をもらうことがある。この作品は、クリエイティビティという点において、我々皆にとっての出発点となった」という。
日本公開では、まず『Melody』というヒロインの名前だった原題をビー・ジーズによる爽やかな曲の数々を想起させる『小さな恋のメロディ』とし、初恋の甘酸っぱさのイメージからリンゴのモチーフをポスターに取り入れ、チラシはリンゴ型のものまで作って徹底的にその線で売り込んだ。主役のマーク・レスターが森永製菓のテレビCMに出たり、日本でのみ発売したビー・ジーズのサントラ盤が大ヒットしたりということで、原曰く、「爆発的なヒットとなりました」。
ヘラルドではその後も度々この作品をリバイバル公開しており、近年でも「午前十時の映画祭 何度見てもすごい50本」の一般映画ファンによる投票では、堂々の第8位に選出されている。まさしく、原宣伝部率いるヘラルドのクリエイティビティが一本の小さな映画に世界で通用する力を与えたと言えそうだ。
文:谷川建司
第4回:終
日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン
『エマニエル夫人』『地獄の黙示録』『小さな恋のメロディ』など、日本ヘラルド映画が送り出した錚々たる作品の宣伝手法、当時のポスタービジュアルなどを余すところなく紹介する完全保存版の1冊。
著・谷川建司 監修・原正人/パイ インターナショナル刊