隣人とどう付き合うか
大型マンションに住んでいると、冗談じゃなく隣に住んでいるのがどんな人なのかわからない。顔さえ認識していない。何かあった時に助け合おうにも誰がお隣さんなのかがわからないのだから、声のかけようがない。冷たい人間関係、それで結構。「よお、うちで軽く一杯やろうよ」なんて声をかけて、全然気が合わない、それどころか口もききたくないタイプだったらどうすんの。
そういうわけで、さらに隣人関係が面倒そうな一軒家には住みたいと思ったことがない。
萩の田舎の山の奥に移住して、美味しいものをご馳走してくれる友人夫妻がいる。朝から美味しいもの、美味しいお酒を、肝臓を休める間も無く振舞ってくれるので、たまにお邪魔する。ご近所さんはとても親切で、黙って自分の畑で採れた野菜を土間に置いていってくれたり、朝撃ったばかりのイノシシ肉をたんまり分けてくれるのを見て、あら、いいことたくさんあるじゃない、と一瞬気を緩めてしまうことがあるが、危ない。イノシシ肉だけ分けてもらって話をしないわけにはいかないもん。いや、嫌な人たちでないことは知っている。だけど、どうしても生理的に嫌だということがあり得る。
例えば、隣の飼い犬。うるさい、毎朝玄関の前にフンをしていく、うちの猫をいじめる、妙に馴れ馴れしくて必ず汚れた手足を擦り付けてくる等々、犬だけでもこんなにある。これに言葉を操る人間が付いてきたらどうなる? 気が遠くなる。
サスペンスなのか、コメディなのか
上映開始後、かなり引いてしまう笑いを取りにくる。こんなことが自分の身に起こったら1週間は死んだふりをするくらいの、どうでもいいけど真剣にならざるを得ない状況。しかし、登場人物は笑ってないし、そりゃそうだろうという展開なので「真面目なコメディ」だろうと思って観ていると、話がおかしな方向によじれてくる。
アイスランドの閑静な住宅地に住む2組の夫婦。そこに“木”だ。1本の木で起こる問題などたかが知れていて、無理して大げさにしてしまうとリアリティを失う、と心配するくらいの木の話。
隣の敷地にあるのは、よく葉の茂った木。その木の影が若い奥さんが日光浴をするポーチを覆ってしまって、再婚で得た女房の言うことはなんでも聞かなきゃならない亭主は「うまく手を入れてくれよ」と男同士で話せば済むと思っていたのに、済まない。隣から言われることにはいちいち腹が立つのが人情。木のことを言った言われたじゃないんだよ。あれもこれもあれもこれも、元から気に入らなかったんだよ、あいつらは、と両夫婦共いきり立つ。
ここからはコメディではなかろうか、いやサスペンスか。笑えないけど、側からは喜劇にしか見えないこともあるし、笑えるけど、本人にとっては悲劇ということもある。悲劇と喜劇は裏表。冷ややかに笑いながら観ていると、行き着くところまで行って、全員が正気を失い、とんでもない大団円を迎えてしまった。やりきった。
人間の愚かさを笑う
人間って面白いね、で済めばいいが、こじれてしまうと朝から大音量でやかましい音楽を聞かせられたり、罵声を浴びせられたり、玄関前に汚物を置かれたり、ということは日本でも起こっていること。これは世界同時多発的嫌がらせ系人間関係である。
「これまで気にしていなかったことが、何かの弾みですべて憎くなる」ということは、誰もが経験したことがあるんじゃなかろうか。嫌がらせというのは終わらない。一旦始まってしまうと警察に駆け込むしかなくなったりする。あるいは引っ越すか。
大げさに言えば、戦争ってこんなことで始まったりするから油断できない。隣の国が核爆弾作ったら危なくってしょうがない。あれは俺んとこ狙ってるんだから、こっちも作っとこう、なんてこともありえるでしょ。愚かですよ、人間は。愚かさを自覚しないとこんなことになりますよ、という警告の作品が、この『隣の影』でございます。
ちなみにアイスランドでは日照時間が短く、日が差すということが貴重なので、監督が語るには、こういうトラブルはよくある話だとか。設定は徹底したリアリティに基づいているようです。北欧の国で作られる映画は凍えるほど冷徹なものが多いが、どうしてだろう。幸福度が高い国にも影があるということか。
文:大倉眞一郎
『隣の影』は2019年7月27日(土)よりユーロスペースにてロードショー
『隣の影』
閑静な住宅地で、小さな諍いが生じていた。庭の大きな1本の木が隣家の日差しをさえぎっていたのだ。ささいなクレームで始まった隣人トラブルが恐ろしい事態へ発展していく…。
制作年: | 2017 |
---|---|
監督: | |
出演: |