「心に怒りの種火を抱えている画家・竜次は、倉本さん自身」
―竜次が夢で見たゴッホの贋作の話はとてもユニークです。まず映画で観ていただきたいので、詳しくは言えませんが。若松監督は倉本さんから、登場人物それぞれの背景を書いた、履歴書のようなものを受け取られたそうですね。
はい。主要な登場人物全員の分をいただきました。映画ではそこまで描きませんが、背景が分かれば役者も僕も、作品についての理解も深まります。それによると若き日のスイケンは、まるでヤクザ。暴れん坊な若者でした。
―竜次が懐かしそうに、スイケンがイタリアのレストランでシェフをやっていた頃の話をしますね。
良家の子だったけれど反発して家を出て、ならず者になってしまった。そういう背景があるからこそ、何を気にすることなく大きなことができるんじゃないですかね。人を脅したり、騙したりも。海外で竜次に贋作を描かせて、生活の糧にしたわけですから。
―2人の関係は信頼に裏打ちされたものだと思う一方、スイケンは竜次を贋作ビジネスに利用している部分もありますよね?
それはもう1人、親玉みたいな人がいるんです。ゴッドファーザーみたいな。
―ゴッドファーザーの存在は、2人の会話にも出てきますね。
そうですね。履歴書では、竜次の腕を買って贋作を描くアイデアを出したのはゴッドファーザーになっていました。映画では病室で少し語られるだけですが、そのゴッドファーザーはスイケンの料理の腕を認め、レンティーニというレストランをやらせていた。その頃、スイケンは竜次の贋作の才能に惚れて、贋作をビジネスにしようと決めます。自分も皿の上に絵を描く一流のシェフ。だから竜次の気持ちが分かる。お互いの才能を認める間柄だからこそ、竜次は贋作の話に乗るわけです。
そんな竜次は晩年苦しみながら、ずっと描けなかった〈迎え火〉という絵を完成させる。それができた背景には安奈の存在があります。安奈と30何年ぶりに会ったことで、竜次は昔の感覚を取り戻し、海に入って浜辺に焚いた迎え火を見たら、赤が違うことに気づく。それでうわーっと描き、悩み抜いて見つけたのが、自分の吐いた血の色です。
―とても面白い設定ですね。そんなアーティストとしての竜次の心情、若松監督も共感するところがあるのではないでしょうか?
僕というより、心に怒りの種火を抱えている画家・竜次は、倉本さん自身だと思います。本木くんともそう話しました。大河ドラマ『勝海舟』(1974年)で(制作側と)喧嘩をして北海道に行くわけですが、怒りはくすぶり続け、鎮火することはないんじゃないでしょうか。そういうところが竜次に重なるんです。画壇から追放されたときの怒り。他人の評価ではなく、自分が納得のいく美を追求し続けようとする姿。田村画伯に、「贋作を描いたのではなく、君の絵を“直してあげたんだ”」という自信も。
―安奈という美の価値を共有できる存在が心の中にいたから、竜次は孤高の作家を全うすることができた。一方、物理的に安奈は傍にいるものの、そういう形で存在することを認めることができない田村は、名誉や金銭的成功という物理的なものに価値を見出している。そんなふうに見えます。
田村はたぶん、いつからか変わったんですね。画家、芸術家であるよりも、お金で価値を測る人に。そこをホテルでスイケンに指摘されるわけです。「絵描きとして上り詰めたが、美の意味を忘れている」と。竜次はスイケンに宛てた手紙でも言っています。「美とはお金で買われたり、力のある人がその本質を変えてしまうものではない。美は美なのだ」と。田村と、スイケンと竜次の二派は背中合わせの存在。片方は世の中の趨勢に流され、一方は芸術家として研ぎ澄まされ、純粋性を保つ。
―若松監督にとって『柘榴坂の仇討』(2014年)、『空母いぶき』(2019年)などでも一緒に仕事をしてきた中井さんは、表現の基点を安心して預けられる人なんだろうと感じます。
中井さんは、1言えば10を理解する方。例えば、「この映画のラストはピエタだよね」と言うと、すぐに「はい、わかりました」と言ってくれる。中井さんは以前、ミケランジェロの4つのピエタ像を見て歩くドキュメンタリー番組で「心を掴まれた」といっていました。中井さんは倉本作品もよくやっているので、倉本さんの言わんとするところも分かっている。もちろん倉本さんが心に怒りの火種を持っていることも。
僕は、美とはこういうものだと結論は出せませんが、たぶん先ほどお話ししたスイケンが田村に言ったことなのだと思っています。ちなみにあの芝居、実はこうしようと一緒に考えた芝居じゃないんです。あの部屋に入った瞬間、中井さんが「前言撤回、変えていいですか?」と言い出して変えたもの。僕は「ああ、倉本聰がいる」と思いました。
―面白いですね。
面白いです。石坂さんは「俺、なんでこんなに責められなきゃいけないの」みたいな感じで気の毒でした。
「あの瞬間の小泉さんは、まるで『男と女』のアヌーク・エーメでした」
―若松監督にとって演出とはなんですか?
体温を感じることです。例えば、スタジオに入ってきた中井さんと握手をして体温が高い日は何も言わなくていいんです。言わなきゃいけないのは低いとき。役者さんと握手をするのは体温を確認したいから。そして僕の体温も今これぐらいだと伝えたいから。「よーい、スタート」がかかったとしても、僕らは自分のテンションが上がっていないと、いい芝居は撮れない。特に僕は不器用なので、そういうところがありますね。
―小樽に訪ねてきた安奈がロウソクを渡すとき、竜次は少し彼女の手を握ります。そのシーンを思い出しました。
そこなんですよ。あのシーンを観た女性が、30数年の歳月を経て安奈に触れた竜次の体温を感じて、ドキッとしてくれたら嬉しいです。普段は冷たいのかもしれない竜次の体温が、安奈と会うときは高くなると伝わったら。何十年ぶりかで会った竜次は、倉本さんの脚本通り、安奈に「やあ」と言います。俺だったらなんて言うだろうと演出しながら考えました。そういうニュアンスまで観ていただけると面白いと思います。
―あのシーン、竜次の爪が絵具で汚れていたのが印象的でした。あの一瞬で、彼がずっと〈迎え火〉という題材と向き合い、格闘してきたことが分かります。
そう。彼は不器用なくらい、絵と向き合っているんです。
―あのシーンは、小泉さんにはどんなふうにお伝えになったんですか?
小泉さんは感性で芝居する人。だから、あざとくなりそうなときだけ「少しやりすぎ」と伝えるだけです。僕はあのシーン、小泉さんから出る台詞なら倉本さんの書いた台詞じゃなくてもいいと思っていました。だから、あそこはある意味、ドキュメンタリー。あの瞬間の小泉さんのリアルといえるかもしれません。
―そうですよね。ただ私には、小泉さんは“小泉今日子”を敢えて封印し、安奈としてドキュメンタリーに臨んだように見えました。本来の小泉さんなら揺れている様子を見せないかもしれないなと。
そうかもしれません。でもあの瞬間の小泉さんはものすごく揺れていました。いつもと違う空気をまとっていたというか。僕は、『男と女』(1966年)のアヌーク・エーメだと思いました。それくらい素敵で、ヨーロッパの曇り空が似合う美しさ。早朝に撮った曇り空の下、一人で海辺に佇むシーンなんかアヌーク・エーメそのものでしたね。
「この作品を“大人が観る映画”と絞りたくない」
―ドガの「踊り子」に似せて、かつて竜次が描いたと思われる絵。それが飾られた小樽のバーには、ドムラの生演奏でロシア民謡が流れています。その絵を手掛かりに、安奈はバーを訪ねる。台詞で多くを語らない分、背景をたくさん用意されているなと思いました。
これは倉本さんの戦略なんですが、竜次が出てくるまでかなり時間をかけました。絵描きの手元とか、キャンバスなどを入れて匂わせてはいますが。冒頭、占い師のような人物が安奈の置かれた状況を語ることで、竜次の存在が浮かびあがる感じにしたかった。そういうところがお客さんに伝われば、語らない部分まで理解してもらえると思っています。
―ただ、これは美とは何かを問う作品。決定的な要素として、絵画にはある種のクオリティが不可欠です。
そうです。絵に説得力がないと話が崩れてしまう。絵にはものすごくこだわって、高田啓介さんという大胆なタッチで対象物を描く岩手在住の画家にお願いしました。まるで竜次が描いたかのようだと思いました。僕らは、竜次のアトリエのロケセットを、小樽の廃校の体育館に決めたのですが、体育館ですからかなり広い。だから100号(※長辺:1,620mm)の絵を頼んだのに、体育館のアトリエに運んだら全然ダメなんですよ、小さくて。東京で見る100号はそれなりに大きいのですが……。
―撮影は、倉本作品の舞台に多い北海道の小樽なんですね。でも、撮影はすぐに始まりますよね? どうされたんですか。
高田先生も来ていただいていたので、改めて130号(※長辺:1,940mm)の絵を描いていただくお願いをしました。油絵は油が乾かないと上に色が重ねられないので、高田先生にはとても申し訳ないことをしました。でも描いていただいた絵は素晴しく、説得力がありました。本木くんにも高田先生のところで勉強してもらったので、彼自身が描いているところもあります。ベースはすべて高田さんですが。
―本木さんの絵も線が走っていて素晴しいですよね。
ダイナミックですよね。高田先生から「うまく描こうとするな」とアドバイスを受けていました。高田先生は、荒々しい筆致の作品で2019年、2022年の日展で特選を受賞されている。あの絵はとても説得力があったと思います。
最後にひとつ申し上げたいのは、僕はこの作品を「大人が観る映画」と絞りたくないんです。美の感受性は老若男女、誰もが持っているものだから。若い方にもぜひ観ていただきたいと思っています。
取材・文:関口裕子
『海の沈黙』は2024年11月22日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開
『海の沈黙』
世界的な画家、田村修三の展覧会で大事件が起きた。展示作品のひとつが贋作だとわかったのだ。連日、報道が加熱する中、北海道で全身に刺青の入った女の死体が発見される。このふたつの事件の間に浮かび上がった男。それは、かつて新進気鋭の天才画家と呼ばれるも、ある事件を機に人々の前から姿を消した津山竜次だった。かつての竜次の恋人で、現在は田村の妻・安奈は北海道へ向かう。
もう会うことはないと思っていた竜次と安奈は小樽で再会を果たす。
しかし、病は竜次の身体を蝕んでいた。残り少ない時間の中で彼は何を描くのか?何を思うのか?彼が秘めていた想いとは?
出演:本木雅弘
小泉今日子 清水美砂 仲村トオル 菅野恵 / 石坂浩二
萩原聖人 村田雄浩 佐野史郎 田中健 三船美佳 津嘉山正種
中井貴一
原作・脚本:倉本聰
監督:若松節朗
制作年: | 2024 |
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『海の沈黙』は2024年11月22日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開