『暁闇』というタイトルに込められた、人生の「ある時間」
心の奥底にあることを伝えられたら、気持ちが少し軽くなるのだろうか。でも、それがどんなことなのか、自分でも言葉にすることができない。言葉にできたとしても、一体誰に伝えたらいいんだろう。誰がこの想いを受けとめてくれるというのだろう……。僕には、私には、分からない。だから黙ってしまう。
24歳の女性監督、阿部はりかの映画『暁闇(ぎょうあん)』は、3人の中学生の日常のある断片を57分間に凝縮した作品だ。最初に感じたのは、登場人物たちの想いは映画に託して届けられなければならない、真っ直ぐな切実さに満ちているということ。作品に込められた熱量とは裏腹に、映画の語り口は静謐で寡黙だ。阿部監督は、時に寄り添い、時に突き放すかのように、人生の「ある時間」を描き出していく。
3人の中学生が、「音」を通じてめぐりあう
「面白くない」―― 顔一杯がそんな気分で満たされた少年コウのアップで映画は始まる。とある中学校、生徒たちと目を合わせることなく、つぶやくような小さな声で事務的に授業を進める教師がいる。緊張感のない教室内は雑談で満たされ、誰も先生の話に耳を貸さない。帰り道、渋谷の雑踏を横切ると、渋谷のとあるビルの屋上に向かう。そこには、不思議な形をした給水塔がある。家に帰ると、教師の父親が弁当を食べている。少年は自室で弁当を食べる。一応彼女はいる。互いのファーストキッスに「ありがとう」と言われたけれど、だからどうってことはない。面白くない。持て余された時間、言葉にならないヤな感じ。シンセのキーボードをたたき始めた彼は、その想いを「音」にしてSoundCloudにアップする。
押しつけられたくない。理想の父親像と家族像を勝手に作って、自分の思い通りにならないとすぐにキレる父親。「全部私が悪いのよね」と夫の言いなりの母。中学に通うサキは一人娘で、今にも息が詰まりそうだ。勉強している振りをしても、食事の時も、自分の居場所はここにはないと感じる。だから、家ではいつもヘッドフォンで音楽を聴きながら布団をかぶってふて寝する。学校に行っても、特に友だちがいるわけじゃないし、自分の居場所がどこにあるのか分からない。行き場のないこの想いをやり過ごすために、彼女は今日もその音楽に耳を傾ける。
何が欲しいわけではない。流行歌の振り付けに興じる2人を傍らに、ベッドフォンをした少女ユウカがいる。放課後、2人からの誘いを断った彼女は、電車に乗ってスマホでいつもの音楽に耳を傾ける。大人びたスタイルに着替えると、誰でもない誰かとの待ち合わせに向かう。ことを済ませた後、「今日は良かったから多めに」と差し出されたお金を、彼女は受け取ろうとしない。だって、何が欲しいわけではないのだから……。
ある日、少年はSoundCloudにアップした音楽をすべて削除してしまう。2人の少女は、いつものページから消えてしまった音を探して渋谷の街を歩く。そして、物語が動きはじめる。
行き場のない切実を抱えながら、それでも時間は過ぎていく……
60年前に公開された『大人は判ってくれない』(1959年/日本公開は1960年)で、自分を持て余した12歳の少年アントワーヌは、父の会社からタイプライターを盗み出す。でも、質屋は引き取ってくれない。少年は重い荷物になってしまったタイプライターを抱えてパリの街を彷徨う。自分の居場所はどこにあるのか、そんなことは誰も教えてはくれない。フランソワ・トリュフォーは、「正解なんてどこにもない」というリアルを、行く当てのない少年の歩みに重ねて教えてくれた。
時が経つことで忘れてしまうことが沢山ある。『暁闇』に登場する3人の切実も、もしかしたらいつしか消えていくことなのかもしれない。月の闇が終わって、彼方にある太陽によって夜は朝へと変わる。夜明け前の暗闇、言葉にできない“蒼さ”を抱えた彼らの姿から、とても大切な、でもとっくにどこかに置き忘れてきた“痛切”という言葉が、再び胸に刻まれた。
文:髙橋直樹
『暁闇』は2019年7月20日(土)より渋谷ユーロスペースほか全国順次ロードショー