獄中のジョーカーを「私のヒーロー」と呼ぶ崇拝者、リー・クインゼル
※編注:作品の設定に一部触れています。
場所はアーカム州立病院(『バットマン』に登場する架空の施設)。そこの薄汚い独房のひとつに収容されているアーサーは、肉体も心も衰弱した「弱き人間」そのものの姿で登場するのだ。まさに骨と皮だけ、という形容が相応しいほどに痩せた背中。顔には絶望の皺が刻まれ、外ではじとじとと雨が降る。
もちろん彼は今や有名人でもある。芸能人マレー・フランクリンを生放送中に殺害。ほか、計5人を殺したらしい。だが実は、自分の母親も含めて6人殺している(脳卒中で入院している母ペニーを枕で押さえ込んで窒息死させたことが前作『ジョーカー』で描かれている)。
まもなく、そんな意気消沈した等身大のアーサーを、ジョーカーという怪物に再び覚醒させようとする、ひとりのファンの女性が登場する。アーカム州立病院の「B監房」の合唱隊の中にいた、囚人リー(レディー・ガガ)だ。
リーはアーサー/ジョーカーをモデルにしたテレビ映画を何度も観たというほど、彼を崇拝している。リーの熱っぽいアプローチを受け、彼女への恋愛感情を募らせたアーサーは、もう一度ジョーカーとしての邪悪な活力を取り戻す。なぜならリーは、ジョーカーこそが「本当のあなた」であり「私のヒーロー」だと信じているから。
ジョーカーとは一体、誰なのか?
『ジョーカー2』では、殺人犯アーサーの是非を問う裁判が物語の柱となる。果たして彼はどのように裁かれるのか。ジョーカーは彼本人がコントロールできない異常な別人格なのか、それともジョーカーこそが彼の本性なのか?
少なくとも言えることは、社会にはジョーカーを崇拝するフォロワーたちが多数生まれてしまったことだ。リーもそのひとり。この映画はフランク・シナトラ&サミー・デイヴィス・ジュニアの曲名と同じ「Me and My Shadow」(俺と俺の影)というルーニー・テューンズ(往年のワーナー・ブラザースのアニメシリーズ)を模したアニメパートで始まる。ジョーカーとしてスター化したアーサーが、自分の影(My Shadow)に乗っ取られる。もともとの楽曲では、My Shadowは「俺の親友」という意味でもあったのだが――。ちなみにこのアニメパートの中にはチャップリンの『モダン・タイムス』や、のちのシーンで引用されるフレッド・アステア主演のMGMミュージカル映画『バンド・ワゴン』(1953年)などのポスターも確認することができる。
映画『ジョーカー』の公開後、社会現象となった本作の影響力は、ゴッサム・シティを超えて我々が生きる現実社会にも及んだのは周知の通りだろう。とりわけインセルと呼ばれる弱者男性や、日本では「無敵の人」(失うものがなく犯罪を起こすことに何の躊躇もない者たち)の心象と結び付けて語られることが多く、ジョーカーはこの不寛容な社会における「持たざる者」の怒りや不満の表象としてのアイコンへと祭り上げられた。もはやアーサー本人より、増殖した「俺の影」(My Shadow)こそが、ジョーカーというキャラクターの存在をハックしたと言えるほどだ。
かつて思想家のハンナ・アーレントは、ナチズムに加担した者の大半がごく平凡な人間であったとし、それを「凡庸な悪」と呼んだ。つまり我々の誰もが他人事ではなく、社会システムの歪みが善良な者を悪に変えてしまう。ならばある意味、現代の「凡庸な悪」の集合意識がジョーカーなのか。それは実体ではなく幻想なのか。
問題作『ジョーカー2』は、哲学の領域に踏み込んで我々に問い掛ける。ジョーカーとは一体、誰なのか? と――。
文:森直人
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は2024年10月11日(金)より全国公開