反戦活動家ドナルド・サザーランドと戦争映画
今年6月に88歳で亡くなったドナルド・サザーランドは、その独特の風貌もあってクセの強い悪役などを多々演じてきた人だったが、その代表作を振り返ってみると戦争映画の傑作の数々に出ていた印象が強い。
実はハリウッドを代表するリベラル派で、何よりも反戦活動家だったサザーランド。――彼は、『コールガール』(1971年)で共演したジェーン・フォンダや、盟友エリオット・グールドらと共に、<Free the Army(FTA)>という反戦グループを立ち上げ、ヴェトナム戦争への反対を唱え、CIAから反戦活動家として監視の対象とされていた。のちにはイラク戦争に対しても反対の立場を表明するなど、生涯を通じてブレることなく反戦活動家であり続けた。
今回は「終戦の日」の来る8月ということで、戦争映画におけるサザーランドの代表作を中心に、戦争映画の在り方をいくつかのパターンに分けて考えてみたい。
冒険アクションとしての戦争映画『ナバロンの要塞』&『荒鷲の要塞』
まず「戦争映画」というと、一昔前までは第二次世界大戦を背景とした映画と相場が決まっていた。その中でも、奇想天外な作戦を成功に導いていく一握りの男たちのチームとしての活躍を描いた冒険アクション映画的な立ち位置の傑作というのが、最も人気あるパターンとして数多く製作されてきた。
その嚆矢ともいえるのが、アリステア・マクリーンの原作を映画化した『ナバロンの要塞』(1961年)だろう。断崖絶壁に設置されたドイツ軍の砲台を破壊するために、登山の専門家(グレゴリー・ペック)らのチームが命を懸けてミッションに挑む物語が、多くの映画ファンをうならせた。
同じくマクリーンの原作に基づく『荒鷲の要塞』(1968年)は、難攻不落の城塞に捕虜となっている米陸軍の将軍を救出するミッションに、米軍中尉役のクリント・イーストウッドと英国軍情報部大佐役のリチャード・バートンらが協力、ドイツ軍の軍装に偽装して唯一のアクセス方法であるケーブルカーで潜入を試みる――という展開だった。
やや遅れて製作された『シーウルフ』(1980年)は、ドイツのUボートに英国商船の情報を無線で送っていると思しきドイツ商船を襲撃すべく、退役軍人の高齢者たちのチームがボランティアで潜入を試みる、という内容だった。
これらの正統派冒険アクション戦争映画がベースとしてあって、ヴァリエーションが生まれてきたと言えるだろう。
第二次大戦モノの中でも奇抜な設定の快作『特攻大作戦』
アクション活劇的戦争映画の中でも、奇抜な設定やハチャメチャなストーリー展開の傑作が、1960年代後半から1970年代にかけて何本かあった。その代表的な作品が『特攻大作戦』(1967年)と『戦略大作戦』(1970年)で、その両作品に出演し、強い印象を残したのがドナルド・サザーランドだった。
『特攻大作戦』では、殺人・強盗などで死刑や無期懲役の宣告を受けた囚人ばかりの12人の部隊が編成され、リー・マービン扮する少佐のリーダーシップの下、ドイツ軍の高級将校らが週末に過ごすフランスの贅沢な館を急襲して敵の指揮系統に大混乱を引き起こす作戦を描いている。サザーランドが演じたピンキーは、いつもニタニタ・ヘラヘラしているのだが、少佐と対立する大佐(ロバート・ライアン)を煙に巻くために、仲間の手で偽の将軍に仕立て上げられる、という相当変な役だった。
作戦は成功するものの、生き残ったのはリーダーのリー・マービン、参謀格のチャールズ・ブロンソンら3人だけで、その他のクセの強い凶悪犯たちはみな作戦途中で命を落とし、英雄として軍隊の中で名誉回復がなされる。ここには、戦争というものは所詮そんな程度のデタラメなものだ、というロバート・アルドリッチ監督のシニカルな視点が透けて見える。
私利私欲で金塊を強奪するハチャメチャな『戦略大作戦』
一方の『戦略大作戦』は、『荒鷲の要塞』のブライアン・G・ハットン監督とクリント・イーストウッドが再びタッグを組んだ作品だが、イーストウッド扮する二等兵の主人公が、捕虜にしたドイツ人大佐からドイツ占領下のフランスの小さな銀行に金の延べ棒があることを聞き出し、それを頂戴すべく勝手にチームを編成して勝手に奇襲作戦を敢行する。
本作でサザーランドが演じるオッドボールという男は、全滅したと思われていた戦車隊の生き残りで、所属部隊が消滅してしまった行き場のない兵隊たちを集めて、ジプシー女とヒッピー・コミューンのような楽しい戦場生活を送っている。彼はイーストウッドの作戦に協力して戦車を提供、多大な犠牲を出しながらも金塊強奪作戦は見事に成功する。
単に自分たちの欲得だけのために勝手に行った金塊強奪なのに、緻密に練られた陽動作戦の成功と勘違いした軍上層部は勲章まで用意する。これまたデタラメな展開なのだが、将軍とか軍上層部なんてのは、所詮、自身の昇進しか考えていない能無しなのだ、というシニカルな意識は『特攻大作戦』と共通している。