孤高の天才の真実に迫る!『プリンス ビューティフル・ストレンジ』
あのプリンスが57歳の若さで急逝したのは2016年4月のこと。もう8年も経ったということに驚くが、“殿下”が遺した数々の名曲はまったく色褪せることなく、若いアーティストにも多大な影響を与え続けている。
1980年の『ダーティ・マインド』、1982年の『1999』、1984年の『パープル・レイン』、1988年の『LOVESEXY』、1989年には映画『バットマン』のサントラ、1992年の『ラヴ・シンボル』、1995年の『ゴールド・エクスペリエンス』、2004年の『ミュージコロジー』……アルバム毎にファンそれぞれの思い入れがあり、しかし殿下のカリスマは世代を越えて浸透している。
アルバムのトータルセールスは1億5千万枚。12枚のプラチナアルバムと30曲のトップ40シングルを生み出し、7度のグラミー賞を受賞。ロックからポップス、ファンク、ソウルなどあらゆるジャンルを貪欲に飲み込み、常に実験的でありながら広く大衆にも受け入れられたプリンスこそ、真の天才アーティストと呼ぶにふさわしい。
『プリンス ビューティフル・ストレンジ』は、そんな天才の真の姿に迫るドキュメンタリーである。米ミネアポリスで生まれたネルソン少年は、いかにして“殿下”となったのか? 全編を通して気取った演出は皆無で、かつての北ミネアポリスの映像や画像を中心に、殿下を知る人々の貴重な、そして各々の想いのこもった熱いコメントで構成されている。
プリンスの軌跡を追えば、それは“ミネアポリス讃歌”になる
60年代、人種差別が苛烈だった米中西部に移住したジャズミュージシャンの父とシンガーの母のあいだに生まれ、北ミネアポリスで育ったプリンス。彼が本格デビューする80年代前後までは同地の音楽シーンなどについて解説されるが、これがまたどれも抜群に面白いものだからたまらない。
錚々たる出演者のなかでもパブリック・エナミーのチャック・Dによる“黒人史講義”さながらのコメントが興味深いが、プリンスの幼少期を知る人々のコメントも新鮮なものばかりで、つまり本作はプリンスを経由した“ミネアポリス讃歌”として観ることもできる。
同地の住民が金を持ち寄って設立したコミュニティセンター「ザ・ウェイ」、そこに寄付された楽器に触れたことで音楽に目覚めたネルソン少年。彼のメンターの一人であった元ボクサーで人権活動家のハリー“スパイク”モスの証言からは、幼少期に受けた教えがのちのプリンスとしてのパフォーマンスにも生きていたことが分かる。
ひと足早く世界的なブレイクを経験していたチャカ・カーンとの親交、ジミ・ヘンドリクスやジョニ・ミッチェルからの強い影響……プリンスの驚異的なスピードでの躍進や、過激なブランディングに対する世間の反応などをアルバム毎に紹介していく流れなので“未プリンス者”にも分かりやすい。なかでも『パープル・レイン』発表時のすさまじい狂騒は当時のアメリカに飛んで行きたくなるほどの高揚感が漂っていて、このドキュメンタリーにとってもハイライトのひとつである。
「頭に浮かんだ音楽を外に吐き出さないと、脳が濁るような強迫観念がある」
俳優のデニス・クエイドは映画『パープル・レイン』を観に行った際のエピソードを明かし、懇意にしていたジャーナリストは「頭に浮かんだ音楽を外に吐き出さないと、脳が濁るような強迫観念がある」というプリンスの名言を述懐。殿下自身が口を開く映像はほとんどないが、証言者の口から数々の<名言>が飛び出し、そのたびにニヤリとさせられる。
プリンスはキャリアの晩年、ファンとのつながりを重視していた。本作に登場する人物も、誰もが知る有名アーティストから、プリンスに“愛と勇気を授かった”市井の人々に変わっていく。彼は亡くなる前、自身を育てた「ザ・ウェイ」のような場所を地元に築きたいと周囲に相談していたという。それは叶わなかったが、苛烈なレコーディング現場でもあった「ペイズリー・パーク」が、ファンにとっての「ザ・ウェイ」になっていたことは間違いない。
いまだに彼の喪失に涙を浮かべ、声を震わせる友人やファンがいる。彼らの言葉があまりにも豊かで穏やかで、生前の彼を鮮やかにイメージできるからか、喪失感に改めて震えてしまう……といった心配は無用だ。とくに音楽に詳しくなくてもアッという間に観終えてしまう最高のドキュメンタリーなので、殿下ビギナーにも安心してオススメしたい。
『プリンス ビューティフル・ストレンジ』は新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー