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【永久保存】巨匠ジョージ・ルーカス濃厚トーク完全レポ! カンヌで「映画人生」振り返り盟友コッポラと抱擁【超貴重】

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ライター:#まつかわゆま
【永久保存】巨匠ジョージ・ルーカス濃厚トーク完全レポ! カンヌで「映画人生」振り返り盟友コッポラと抱擁【超貴重】
ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラ 第77回カンヌ国際映画祭(撮影:まつかわゆま)
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ジョージ・ルーカス、カンヌに降臨

「ランデヴー・アヴェック ジョージ・ルーカス」――第77回カンヌ国際映画祭、ドビュッシー劇場で5月24日に行われたジョージ・ルーカスのトークショーは、開場の30分前にもう長い列ができていた。

チケットを入手できなかった人たちが「ルーカスのチケット求む!」と手書きのパネルを手に、何人も会場の前に立つ。若い、学生らしき人たちが目立つ。イラストをつけるなど、どうにか目立ってチケットを譲ってもらおうと、涙ぐましい努力。あの彼は入場できたのだろうか……。

第77回カンヌ国際映画祭「ランデヴー・アヴェック ジョージ・ルーカス」(撮影:まつかわゆま)

カンヌ映画祭には28歳以下の映画ファンが参加できるパスがある。最初か最後の3日間、本来プロしか参加できない映画祭に参加できるのである。メリル・ストリープとルーカスのトークショーは、この映画ファンたちも参加できるように、最初と最後にセッティングされていた。

以前は「マスター・クラス」と呼ばれていたトークショーだが、現在は「ランデヴー・アベック◯◯」と呼ばれており、英語では「インタビュー・ウィズ◯◯」とされ、聞き手が質問をしてそれにゲストが答えるという形になっている。

今年の名誉パルム・ドール受賞者はメリル・ストリープとジョージ・ルーカス、そしてスタジオジブリ。ストリープは開会式に登場してジュリエット・ビノシュからトロフィーを受け取り、翌日にトークショーを行った。

メリル・ストリープ 第77回カンヌ国際映画祭(撮影:まつかわゆま)

ルーカスは最終日の前日にトークショーを行い、トロフィーの授与式は閉会式の際に行われた。プレゼンターは、ルーカスの恩人であり兄貴分であり親友のフランシス・フォード・コッポラだ。

しっかりとハグを交わす長年の戦友ふたり。パルム・ドールの発表の前に行われたルーカスの名誉パルム授与式は、なかなか感動的なものになった。

「僕は<ART>ではなく<MOVIE>を作ってきた」

話を24日のトーク開始時間14時30分に戻そう。まず、カンヌ映画祭総代表のティエリー・フレモーが登場してゲストとインタビュアーを紹介し、ルーカスを紹介する短いフッテージを上映する。『THX-1138』(1971年)から『アメリカン・グラフティ』(1973年)、そして『スター・ウォーズ』サーガ(1977年~)へ……。若き日のルーカスがインタビューに答えている姿、撮影中の姿などが織り込まれたものだ。

そして、フレモーが再び登場し「アーティストであり、テクノロジーのキングであり、60年代半ばから70年代のサンフランシスコで花開いたムーブメントを支えた、映画界にとって最も重要な人物の一人、ジョージ・ルーカス!」と呼び込む。

高まる歓声、拍手、口笛の中、トコトコと登場したルーカスは、カンヌ映画祭の初日、5月14日に80歳を迎えたばかり。トレードマークのチェック柄のボタンダウンシャツ、かつてはそれにジーンズだったが、さすがに今は動きやすくゆったりとしたスラックス、そして白いスニーカーを履いている。歓声に照れているのか所在なげで、ときおり手を挙げて振ってみたりするのだが、そのたびに歓声と拍手が高くなり、それを何回も繰り返すものだから、なかなかショーが始められない。

第77回カンヌ国際映画祭「ランデヴー・アヴェック ジョージ・ルーカス」(撮影:まつかわゆま)

フレモーの登場から10分以上たって、ようやくルーカスは席に着き、トークが始まった。聞き手は<カナル・プラス>のディディエ・アルーシュ。プレス会見でも司会を務めているジャーナリストだ。まずはルーカスが挨拶する。

今日ここには、僕のコ・ライターであり、コ・プロデューサーであり、コ・エブリシング(※すべて共有)であるウォルター・マーチと一緒にやってきました。ウォルターと僕は、52年前に『THX-1138』を持ってカンヌに初めてやってきたのです。それからずっとウォルターとは一緒です。

そんな懐かしい思い出があるカンヌで、名誉パルム・ドールをいただくということは大変光栄に思っています。僕は「ART」ではなく「MOVIE」を作ってきたのですが……。

ウォルター・マーチは、ライター/エディター/音響デザイナーとして活躍するベテラン。コッポラとの仕事を通じてルーカスの作品も『THX-1138』から手掛けている。

「僕が作りたいのは映画であって、金じゃなかった」

――ディディエに「スタートからの話を」と振られたルーカスが話し始める。

高校の時は本気でカーレーサーになりたかった。カリフォルニアのモデストという小さな町でね、映画館が二軒あった。一つはB級映画をやっていて。もう一つはハリウッド映画をかけていた。この町で父は文房具店をやっていたんだ。

父には「大学に行ってビジネスを学べ」と言われていたんだけれど、その気にならなくてね。イラストレーターか写真家になるのもいいかなと思っていたが、一番なりたかったのはカーレーサーだった。けれど、高校の卒業式の直前に事故を起こしてしまい、大けがをしたんだ、生きるか死ぬかの。それで大学に行こうと思って地元のジュニアカレッジに行った。人類学や文学、言語学、歴史学や写真などを学んだよ。

第77回カンヌ国際映画祭「ランデヴー・アヴェック ジョージ・ルーカス」(撮影:まつかわゆま)

ジュニアカレッジを出て進学することにした。コロンビアも受かったんだけれどUSC(南カリフォルニア大学)に行くことにしたら、写真科じゃなくて映画科だったんだ。学校で映画を学ぶのか? と思ったよ。1920~1930年代には、映画はスタジオで学ぶものだったからね。でも、その頃はすでにスタジオは監督になりたい新人を採用しなくなっていた。スタジオ自体がペプシコーラやガルフ・アンド・ウエスタンのような、別業種の大きな会社に買われていたころだよ。それで映画を作りたい連中は大学の映画科に行くようになったわけだ。やってみたら、自分がやりたいのはこれだ! って思った。

1967年、そこで作った『電子的迷宮/THX 1138 4EB』が学生映画祭で賞をとって、スカラーシップ(奨学金)をもらったんだ。ワーナーのスカラーシップは「フランシス・フォード・コッポラの現場に就く」というものだった。『フィニアンの虹』(1968年)の現場だ。そこでフランシスに会った。ロケで各地を回りながら仲良くなったよ。

「映画学校を出たらどうするつもりなのか?」ってフランシスに聞かれて、「アニメーションの会社に行こうかと思っている」と答えたら、「そんなのやめとけ」と言われてね。「サンフランシスコに戻るからついて来いよ、一緒にやろうぜ! 何を作りたい? スクリプトを書いてみろよ」と勧められて、映画製作スタジオ<アメリカン・ゾエトロープ>の立ち上げに参加することになったんだ。

このころからLA、ハリウッドに行く気はさらさらなかった。僕が作りたいのは映画であって金じゃなかったから。サンフランシスコには望むものが何でもあった。ミックス・カルチャーの中心で、ロックの天国でありながら正統派のオーケストラもある。<Apple>の誕生の地でもあるしね。のちに<ILM>や<ルーカス・フィルム>を立ち上げる時も、サンフランシスコで作ったのはそんなわけだ。25歳だったしね、なんでもできるって気分だったよ。でも、書いたものをエージェントに持ち込むと「電話してこなくていいから、なんかあったらこっちからかけるよ」と追い出されて、もちろんなしのつぶてさ。電話なんてかかってきやしない(笑)。

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