新バージョン“うっかり”誕生秘話
「ファイナル・カット」への道は意外なところから開かれる。あるときクラシック映画の上映会(70mmフィルムで名作映画を観るイベント)で上映された『ブレードランナー』は、まだ誰も観たことのないバージョンであった。それが「インターナショナル版」だと思っていた観客は、実際にかけられたのが全く違うバージョンだったことに驚く。間違えてかけられたのは、まだ存在も知られていなかったワークプリント版だったのだ。
#OnlyFilmTopics
— Only Film Media (@OnlyFilmMedia) April 24, 2023
Six Films With Multiple Versions:
1. #BladeRunner (1982).
Workprint prototype (1982)
San Diego sneak preview (1982)
US theatrical release (1982)
International theatrical release (1982)
US broadcast version (1986)
The Director's Cut (1992)
The Final Cut (2007). pic.twitter.com/A78WbgsJwf
この上映が評判を呼んだため、ワーナーはこれを「ディレクターズ・カット」として公開しようとしたが、リドスコは修正を要求。しかし、彼は『1492・コロンブス』(1992年)の撮影で多忙だったため、彼のチームがリドスコの意図を汲むことに。とはいえ、すべてが彼の思い通りになっていたわけではなかった。そして2007年にやっと満足のいく形に仕上げることができ、これが「ファイナル・カット」になる。
そんな「ファイナル・カット」のナレーションなしのドラマ展開は「ディレクターズ・カット」を受け継ぎ、スタントマンが演じていたシーンを本人に演じさせたり、技術的な不具合をCGで修正するなど、多くの変更点が存在する。しかし最大の変更は、「デッカードはレプリカントではないのか?」という要素がより増大しているところだろう。
ただ、なぜリドスコはこのような説に行き着いたのか。それは彼の中で、当初の脚本に存在した「もし俺がレプリだったら……」とデッカードが思いをはせるシーンのイメージが膨らんでいったことが一因だ。
「デッカードはレプリカントなのか?」論争の顛末
ハンプトン・ファンチャーによる初期脚本には、デッカードが「自分は誰がデザインしたのだろう」というナレーションがあった。これは哲学的、メタファーとしての表現だったが、次の脚本家デヴィッド・ピープルズ版では、そこから発展し「戦闘モデルのレプリカントかもな、俺は……」という台詞になる。もちろんこれもメタファーのつもりだったが、リドスコはこれを文字通りに受け取った。
blade runner (1982) dir. ridley scott pic.twitter.com/evIiTBWvFU
— cinesthetic. (@TheCinesthetic) February 10, 2024
「ファイナル・カット」には、デッカードの見るユニコーンの夢や、レプリの目の中に光が宿るシーンと同様にデッカード自身にもそのようなシーンが存在するなど、リドスコの「彼はレプリカントである」という説を増強する編集や仕掛けが随所に存在する。詳しくはムービープラスで放送の「ブレードランナー ファイナル・カット◆副音声でムービー・トーク!」内で解説されているが、それら様々な要素、ものによっては偶然だったり現場の混乱からの産物を構成し直して全く別の解釈で、かつ説得力あるものに変える手腕はさすがリドスコ、といったところだ。
しかし、それらは自説に近づけることによって様々な人の手からお気に入りの作品を取り戻す作業であり、そのための数多くの変更と思えなくもない。そんな“リドスコ説”に対し、ハリソン・フォードとルトガー・ハウアー(レプリカントのロイ・バッティ役)は「デッカードは人間だ」と真っ向から反対している。
彼らは撮影中、<人間vsレプリカント>の物語だと思って演じていた。ハリソンは「デッカードがレプリだとしたら、人間性を失っていた彼が人間性を取り戻す要素が弱められてしまう」と反論。元々のテーマは、アンドロイドがデッカードに人間的な感情移入を見せる――つまり「人間よりも人間らしい」というのが前提の物語だった。それが根底から覆されてしまっている、と。これにはハウアーも完全同意しており、「それではラストの<人vs機械>の戦いが単なる2体のレプリの戦いになってしまい台無しだ」と語っている。
結局のところ、デッカードの人間性の解釈は観客に任されている。リドスコ自身は、観客がデッカードをレプリカントか否か、どちらにとってもかまわない。しかし私はレプリだと思っている、と表明している。
さらにリドスコは最近、この映画は『エイリアン』(1979年)と世界が同じだと言い出している。たしかに『ブレラン』は、『エイリアン』から音響効果もかなり流用している。『ブレラン』でガフ(演:エドワード・ジェームズ・オルモス)が乗るスピナーの車載コンピューターのモニターは、『エイリアン』の宇宙船ノストロモ号/救命艇で使われていたものと同じデザインだ。
Alien y Blade Runner.
— Universo Alien (@UniversoAlien) May 11, 2020
En la Narcissus tripulada por Ripley y en el Spinner tripulado por el oficial de policía Gaff aparecen exactamente la misma pantalla “Environ CTR Purge”.
¿Os disteis cuenta? 🧐 pic.twitter.com/4hHaUHNB2y
さらに、『プロメテウス』(2012年)の特典映像で、レプリカントの生みの親であるタイレル博士に言及しているシーンがあるなど、『エイリアン』と『ブレードランナー』という自身の代表作をリンクさせようとしているフシが見られる。どちらも続編的存在の製作が続いていることもあり、この動きもこれからどうなっていくのか気になるところだ。
ファンの数だけそれぞれの『ブレラン』がある
リドスコにとって、「もっとも個人的な映画」だという『ブレードランナー』。「ファイナル・カット」は彼が思い入れのある作品を自分の手に取り戻そうとした、その試みの結果なのかもしれない。しかし役者陣が反対するように、どちらのバージョンにも支持する者がいる。もしかするとリドスコを含め、制作者にも観客にも1人1人それぞれの中に自分の夢想する「私のブレラン」があるのではないだろうか。
なぜ、そこまで多くの人々が『ブレラン』に熱狂し続けるのか。セット、スピナー、ブラスター……ひとつの要素だけをとっても、それに人生をかける人々がいるほどである。限りなく完璧、だけどどこか足りず、どのバージョンにもそれぞれの良さがある。そして、それを自分の手で補完したくなる……。それがマニアを魅了する一因なのだろう。この現象はもしかすると、今回「副音声~」で再放送される『2001年宇宙の旅』(1968年)と共通しているかもしれない。
幸いなことに『ブレラン』は今のところ、某“宇宙大戦”映画のようにCGで作り直してしまって元の映画が観られない……ということにはなっておらず、個々のバージョンを観比べられることが本当に幸いである。「ファイナル・カット」がリリースされたとはいえ、今後もまだ動きはあるかもしれない。発見されたワークプリント版も気になるし、ファーストカット版は4時間もあったそうで、それはどこにあるのだろうか。とにかく続編映画やゲーム、ファンメイドがいまだに作り続けられている『ブレラン』世界は、まだまだ終わりそうにないのである。
文:多田遠志
「ブレードランナー ファイナル・カット◆副音声でムービー・トーク!◆」はCS映画専門チャンネル ムービープラスで2024年2月放送
https://www.youtube.com/watch?v=x6AcamDmYJ4