『ブレードランナー 2049』のKも『人狼 JIN-ROH』の伏も、組織の“犬”
「犬の映画」というのがあると思う。
これはリアルワンコのことではない。概念としての犬。さらにいうと「概念としての犬」を生きている人間の映画を「犬の映画」と呼んでみたいのだ。
犬と人間の間には“モッテコイごっこ”という遊びがある。人間が棒切を投げ、犬がそれを咥えて戻ってくるという、あの遊びだ。「犬」は、その服従本能にしたがい、飼い主を信じて命令を果たす。「犬の映画」はそうやって、主人公が主の命令にしたがって“モッテコイごっこ”をするところから始まる。
『ブレードランナー 2049』は間違いなく「犬の映画」だと思う。
主人公Kはロス市警に所属する、ネクサス9型のレプリカント。彼の任務はブレードランナー。反乱の恐れがある旧型のレプリカントを見つけて“解任(処分)”することだ。ネクサス9型は、主の命令に絶対従順なまさに“警察の犬”なのだ。映画はKが、かつてあるレプリカントが産んだ子供の存在の抹消を命じられるという“モッテコイごっこ”を縦軸に進行していく。ちなみにKを、演じているのがライアン・ゴズリングなのも“犬感”が増している理由のひとつだと思う。
押井守監督が脚本を書き、沖浦啓之が監督を務めた『人狼 JIN-ROH』もまた犬の映画だ。主人公は、反政府勢力のセクトを追う首都警警備部特機隊<ケルベロス>の隊員・伏。名前からして本作が「犬の映画」たらんとしていることがよくわかる。隊員の任務という“モッテコイごっこ”に黙々と身を投じる伏。彼が出会ったのは、彼の目の前で自爆した少女の姉を名乗る女・圭。2人は次第に距離を縮めていくが、それは組織対組織の騙し合いの果てに生まれた儚い夢のような関係だった。
さて、犬好きとして知られる押井守監督が、この“モッテコイごっこ”について触れている漫画がある。自身が原作を手がけた漫画『西武新宿戦線異状なし』(画はおおのやすゆき)だ。作中ではまず「人間が動物たちと話すには?」(ヴィッキー・ハーン著)が引用されている。
ハーンは、人間と犬にとっての“モッテコイごっこ”を説明した後、犬の心理に触れる。一度“モッテコイ”をした犬も、2回めになると、「この棒をあのこに渡してしまってよいのかな」と思い、そのためらいが人間の手の届かないところまできて棒を置くという行為に現れるというのだ。「もし“モッテコイごっこ”をしたいなら、人間はこの修正案を受け入れて、自分で棒切れを拾い上げなくてはならない」。このくだりを引用した『西武新宿戦線異状なし』の登場人物は、これについて「これは人間がイヌに“モッテコイ”を命令することの道徳的な根拠について論じた本なんだそうだ」と解説を加えている。
“野良犬”、“狼”……幸せを掴めるのはどの“犬”なのか?
犬にも意志があり、人間=主がそれを受け入れることによって“モッテコイごっこ”は平和に続いていく。
『西武新宿戦線異状なし』の挿話のように、Kという犬も、伏という犬も、ともに自らの意志が表に出てくる瞬間が描かれている。
その結果、Kは主のもとから逃げ出して“野良犬”となる。そして、自分の意志で、ある“モッテコイごっこ”を達成する。それはフェイクに囲まれた彼の人生に起きた数少ない真実のひとつだった。
一方、伏はここから逃げ出したいと思いながらも、最終的に主との“モッテコイごっこ”を選ぶ。その結果としての大きな喪失とともに、伏は犬よりも研ぎ澄まされた“狼”となる。それは「赤ずきん」を下敷きにした『人狼 JIN-ROH』としては当然の終幕でもあった。
犬、野良犬、狼。果たしてどの生き方が幸せなのか。「犬の映画」はそんな人生の寓話として、観客に問いかけてくるのだ。
文:藤津亮太