怪獣特撮界でも馴染み深い“異文化との邂逅”というテーマ
映画の世界には、「奇祭・奇習映画」というジャンルがある。その多くは、未開の土地や異国にやってきた主人公たちが、常識や文明から逸脱した民族や風習と出会い、驚いたり感動しつつ厄介ごとに巻き込まれてヒドい目にあったり、ときには殺されたりする。いうなればショッキング版「世界ウ○ルン滞在記」のようなものだ。
異文化との邂逅・衝突を描いた作品は古くから数多くあるが、1960年代には世界の奇祭・奇習などを見世物的に扱った「モンド映画」というジャンルが隆盛した。世界中の奇習を記録(ヤラセ多数含む)したグァルティエロ・ヤコペッティ監督の『世界残酷物語』シリーズ(1962年~)や、食人習慣を持つ原住民に襲われた撮影クルーが残した衝撃の実録フィルム! ……という体のホラー映画『食人族』(1980年:ルッジェロ・デオダート監督)などが代表的な作品にあげられる。
2020年3月に公開され大ヒットを記録した映画『ミッドサマー』も、「フェスティバル・スリラー」という新ジャンルを自称していて感心したが、要するに同作はこの「奇祭・奇習映画」の最新バージョンと言える。「なんか知らねぇところに、やべぇ奴らがいて、オラすっげぇハラハラすっぞ!」という奇祭映画は、いつの時代も常に人々の興味を引くジャンルなのだ。
怪獣特撮の世界でもこうした異文化との邂逅、そして奇祭に巻き込まれるというシチュエーションは鉄板中の鉄板だ。古くは1933年の『キング・コング』で、髑髏島に上陸した調査隊が島に住む巨猿に捧げる原住民たちの「生贄の儀式」に巻き込まれる。我が国では、初の国産怪獣映画『ゴジラ』(1954年)で「かつて嫁入り前の娘をゴジラの生贄として海に流した」という奇習が断片的に語られ、『大怪獣バラン』(1958年)ではバランを「婆羅陀魏山神=バラダギ様」として崇拝する集落が登場するなど、モロに奇祭映画の要素が強い。「奇祭・奇習」と「怪獣」は、切っても切れない関係なのである。
アニゴジは『ミッドサマー』ばりの「奇祭映画」だった!?
2017年から三部作構成で公開され、現在Netflixで配信中のアニメ映画『GODZILLA』シリーズ、通称「アニゴジ」(『GODZILLA 怪獣惑星』『GODZILLA 決戦機動増殖都市』『GODZILLA 星を喰う者』[2017~2018年])。脚本に虚淵玄氏(『PSYCHO-PASS サイコパス』シリーズ[2012年~]ほか)を迎えて従来のシリーズとは逸脱した世界観を描き、賛否両論を呼んだ。
1作目『怪獣惑星』こそ、怪獣に支配された地球を捨てた人類が母星に帰還し、究極の生命体であるゴジラと対峙するという王道的な展開だったが、次第に作品は哲学的な様相を呈していく。(色んな意味で)大きく変わった怪獣たちの姿とともに、当時劇場で見ていた自分も困惑した。しかし、今回あらためて見返してみて、ある考えが浮かんだ。「アニゴジって、宇宙規模の壮大な奇祭・奇習映画だったのでは……!?」と。
同シリーズには、地球人類の他に「エクシフ」「ビルサルド」という異星人、そして独自の進化を遂げた地球住民「フツア」が登場する。異星人と人類はゴジラという共通の超ド級な脅威を前に協力してはいるが、本質的にはまったく違う思想・文化を持っている。その差異が次第に露見していく異様さは、ある意味「奇祭・奇習映画」の“理解不能・対話不可能な異文化と出会った”時のゾッとした感覚に似ている。するとどうだろう、その(人類から見ての)奇祭・奇習に巻き込まれヒドい目にあっていく登場人物たちが、『食人族』の撮影クルーに、『ミッドサマー』の大学生一行に見えてこないだろうか?(見えてくるよね!)
それはある意味、怪獣映画の根幹の一つの異常進化形なのかもしれない。ハリウッド版『GODZILLA』もNetflixで配信されている(2020年3月時点)ので、シリーズのファンはもちろん初めて見る人も、怪獣映画としての『GODZILLA』に困惑した人も、「奇祭・奇習映画」としてのアニゴジを楽しんでみてはいかがだろうか。
文:タカハシヒョウリ
『GODZILLA 怪獣惑星』『GODZILLA 決戦機動増殖都市』『GODZILLA 星を喰う者』はNetflixで独占配信中