ホークアイ、サノス、アイアンマン……『エンドゲーム』で描かれた“父親”たちの物語
『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)は家族の、それも“父親”をめぐる物語だった。もちろん、それまでのMCU作品の中でも各キャラクターたちの家族への様々な思いが点描されていたが、MCUの一区切りとなる本作では、より一層、家族の存在感が強調されていた。それは冒頭、クリント・バートン(ホークアイ)の家族が、タイタン星人サノスによるデシメーション(インフィニティ・ストーンの力を使った大量殺戮)によって消え去るシーンから始まるところからして明確だ。
さらに本編が始まれば、サノスと2人の養女ガモーラとネビュラの関係が(これまでの作品に引き続き)影響しているし、量子の世界から帰還したスコット・ラング(アントマン)が真っ先に駆けつけたのは娘のもとだった。ちなみにソーは例外的に、過去で死ぬ前の母親と出会うことで自信を取り戻すが、これもまた“家族”の物語の一つであるのは間違いない。
そして、中でも大きな縦糸になっているのがトニー・スターク(アイアンマン)だ。デシメーション後、5年が経過し、彼には愛娘が生まれている。だがその一方で、息子のように感じていたピーター・パーカー(スパイダーマン)の死も、彼の心に重くのしかかっていた。一度は抗うことを止めてしまったトニーだったが、ピーターを失った後悔を乗り越えるために、仲間とともに時空を超えてインフィニティ・ストーンを取り返す作戦に参加することを決意する。
そしてこの作戦は、トニーのもうひとつの後悔 ― 屈折した愛情を感じていた実父ハワード・スタークとの関係 ― を乗り越えるきっかけともなった。こうしてトニーはピーターに対する父としての気持ち、ハワードに対する息子としての気持ち、それぞれに決着をつけて人生をまっとうする。つまり『エンドゲーム』は、トニーが“素直さ”と“勇気”を欠いていたために、正しい距離がとれなかった“家族”というものと、ようやくちゃんと向き合うようになる映画でもあったのだ。
息子たちに流れる父親の“血”― 逃れられない親子の絆
一方、森見登美彦の小説を原作とする『有頂天家族』は不在の父を巡る、残された兄弟たちの物語だ。
舞台となるのは、タヌキと天狗が人間社会に紛れて暮らしている現代の京都。タヌキ界の頭領・偽右衛門でもあった下鴨総一郎は、ある年の瀬に人間たちにタヌキ鍋にされ命を落としてしまう。
この総一郎には4人の息子がいた。マジメで融通がきかない矢一郎、思うところあってカエルの姿となり古井戸の中から出てこなくなってしまった矢二郎、そして「面白きことは良きことなり!」の言葉を身上に日々を飄々と過ごす本作の主人公・矢三郎、そしてライバルの夷川家の金閣・銀閣にいじめられている気の弱い矢四郎。4人の息子たちには、総一郎のさまざまな側面が受け継がれている。
総一郎の死の真相を追う過程で、それぞれに父との関係を噛みしめる兄弟たち。いなくなったからこそ実感する父の存在感。各々勝手に生きている息子たちだが、ひょんなところで父の存在が顔をのぞかせる。それがつまり“血”というもので、作中で言われる「阿呆の血のしからしむるところ(阿呆の血統がそうさせているのだ)」というフレーズは、まさにこの逃れ得ない親子の絆のことでもあるのだ。
成長過程における“道標”としての父親のロールモデル
仕事に忙しかったため父ハワードとの思い出が少なく、父というロールモデルを持たなかったために、迷いながらも自分なりに父というものに近づいていくトニー。それに対し、“血”として父の存在が織り込まれてしまっている下鴨家の息子たち。
彼らを見ると、息子にとって父のロールモデルがあるということは、ヨットの“キール”のような存在であると思い知らされる。キール(竜骨)とはヨットの船底に張り出していて、横滑りを防ぎ、安定して帆走させるためのパーツだ。父というロールモデルがあれば、それに従うにせよ従わないにせよ、大人になる過程で父との距離を測ることができるから、自分なりの道を選びやすくなる。
そして下鴨家の兄弟のように、最初からキールが組み込まれている人もいれば、トニーのように最初は持っていなくても、自分でなんとかそれを手に入れる人もいる。
父というのは、このように、息子にとって“定点”であることを求められる存在なのだろう。
文:藤津亮太
https://www.youtube.com/watch?v=S3W4mfMNZ-Y