生後3ヶ月で子役デビュー!
生涯で出演した映画は5本のみ……と思っている人も多いと思うが、ブルース・リーは生後3ヶ月で『金門女』(1941年)に出演して以来、数多くの映画に出演したベテラン子役であった。1958年にアメリカに渡るまでに出演した映画は、先の『金門女』を含めて25本。その中には『雷雨』(1957年)や『人海孤鴻』(1958年)といったヒットとなった作品も含まれており、その端正なルックスも相まってブルースは売れっ子若手俳優の地位を確立しつつあった。
🐉📸📽📻 From the Bruce Lee Archive #54 ‘The Orphan’: Bruce's last "childhood" film "The Orphan" was released in 1960. He acted in over twenty films in his youth before the1970s roles he's largely known for. These early movies are a...[Full Post Copy on Bl IG @brucelee] pic.twitter.com/KYf3NOAm4x
— Bruce Lee (@brucelee) July 24, 2020
そんなブルースは、映画俳優の地位を手放してアメリカへ渡ることになる。素行不良によって名門ラ・サール・カレッジ中等部から聖フランシスコ・ザビエル・カレッジ中等部に転校となり、警察からは「今度ストリートファイトをしたら刑務所に入れなければならなくなる」と警告され、またケンカの相手がエスカレートしていくことをブルースの両親が危惧し、ブルースが市民権を持つアメリカへ送ったのだった(ブルースはサンフランシスコ生まれ)。アメリカへ渡ったブルースは、レストランで住み込みのアルバイトをしながら高校を卒業してワシントン大学に進学。ここで演劇、哲学、心理学を学んでいる。
『グリーン・ホーネット』とハリウッドでの挫折
この頃から武道家ブルースの破竹の進撃が始まるのだが、同時にブルースは再び俳優としての道も歩き始める。様々なオーディションを受ける中で、1930年代に好評を博したラジオドラマを基に1966年に始まったテレビドラマシリーズ『グリーン・ホーネット』に助演のカトー役で出演が決定。全26話に出演し、あまりにもレベルが違うアクションを披露して全米を熱狂させた(それでもカメラがついていくためにスピードを落としたり、盟友ダン・イノサントの助言でヌンチャクを取り入れるなどの工夫が必要だった)。
また、ブルースの武術道場の門下生にはハリウッドの映画関係者が多くおり、彼らによって多くのテレビや映画の仕事が来ることになる。しかし、ジェームズ・コバーンと『タワーリング・インフェルノ』(1974年)の脚本家であるスターリング・シリファントと共に構想を練っていた『サイレントフルート』(1977年)というタイトルの映画が、英語の訛りとアジア人過ぎる容貌(ブルースはドイツ人のクォーター)からブルースが主役を務める案が却下されたことにショックを受け、傷心のまま故郷の香港に戻ることになってしまう(『サイレントフルート』は後にデヴィッド・キャラダイン主演で『燃えよ!カンフー』(1972年~)というタイトルでドラマ化された)。
本来の主役を喰ってしまった『ドラゴン危機一発』
香港に戻ったブルースを出迎えたのは、新興のゴールデン・ハーベスト社だった。ゴールデン・ハーベスト社は、当時香港の最大手スタジオであったショウ・ブラザースから独立したレイモンド・チョウ、レナード・ホー、俳優のジミー・ウォングらが立ち上げた新興の映画会社で、ジミーに続く次世代のスターを欲しており、ハリウッド帰りのブルースはまさに喉から手が出るほど欲しい人材だったのだ。特に、ジミー主演の『吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー』(1972年)、『片腕ドラゴン』(1972年)の大ヒットによって、それまで主流だった剣劇アクション映画から肉弾アクションが中心のカンフー映画に大きくシフトチェンジしたタイミングは、ブルース帰国のタイミングとしても絶妙だった。
ゴールデン・ハーベスト社と契約したブルースは、タイへ飛ぶ。そこではジェームズ・ティエン主演の『ドラゴン危機一発』(1971年)の撮影が予定されていたのだが、助演の予定だったブルースのスター性とアクションの凄まじさから、ジェームズの役は映画中盤で殺されることになり、ブルース主演で急遽脚本が書き換えられたのだった。この『ドラゴン危機一発』は、低予算、監督不在(ロー・ウェイ監督が前作の撮影遅延で到着が遅れ、プロデューサーのレナード・ホーが演出、さらにレナードが不在となり、助監督が現場を回していた)、新人俳優というハンデを乗り越えて、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットを記録。ブルースは一躍大スターの仲間入りを果たす。
『ドラゴン怒りの鉄拳』で国民的スターとなり『ドラゴンへの道』で製作者の道へ
続く香港復帰第二作となったのは『ドラゴン怒りの鉄拳』(1971年)。伝説の武術家・霍元甲の死に異変を感じた弟子の陳真が、強大な日本軍と戦う抗日映画だ。本作からブルースは映画製作にも積極的に係わるようになり、友人のボブ・ベイカーを外国人武道家として招聘するだけでなく、日本に渡って大ファンであった勝新太郎に面会し、橋本力(元プロ野球選手で『大魔神』のスーツアクター)と、勝のスタントダブルを務めていた勝村淳の出演を取りつけている。ヌンチャクによる凄まじいアクションシーンと、芸術的ともいえる悲壮感あふれるエンディングも相まって、『ドラゴン怒りの鉄拳』は香港をはじめとするアジア各国で大ヒットを記録。ブルースは国民的スターの地位を確立したのだった。
『危機一発』と『怒りの鉄拳』で大成功を収めたブルースは自身が映画全般をコントロールするために、レイモンド・チョウと共に映画製作会社コンコルド・ピクチャーズを設立。ブルースが監督・脚本・武術指導・主演の四役を務める『最後のブルース・リー/ドラゴンへの道』(1972年)の製作に取り掛かる。敵役として、世界空手選手権ミドル級の絶対王者チャック・ノリス、ノリスの弟子ボブ・ウォール、ハプキドー(韓国合気道)の有段者ウォン・インシクを招聘。イタリアのローマ・ロケを敢行した本作は、香港で前作を上回る凄まじいヒットを記録した。コメディパートの多い本作は、ブルースの妻であるリンダいわく「本来のブルース自身の姿に近い人物像」であり、俳優としてのブルースの幅の広さを見せた作品でもあったのだ。
『燃えよドラゴン』でハリウッド凱旋!『死亡遊戯』は未完の傑作に
1972年の秋からは『死亡的遊戯』というタイトルの映画の製作を開始。撮影をしながら脚本を作成するスタイルの作品で、ブルース自身がスタッフとキャストを集めて製作を進めていた。仲間と共に塔を上りながら、各階の武術の達人を撃破していくというシークエンスをフィルムにして100分ほど撮影した所で、アメリカのワーナー・ブラザースから『燃えよドラゴン』(1973年)への出演の依頼があり、『死亡的遊戯』の撮影は中断。ブルースは『燃えよドラゴン』の完成に邁進していくことになる。
アメリカ時代に果たせなかったハリウッド映画主演にかけるブルースの熱意は凄まじく、『燃えよドラゴン』はブルースの持つすべてのポテンシャルをいかんなく発揮した作品となった。その熱意は、すべての撮影が終わった後、『燃えよドラゴン』のオープニングのサモ・ハンとのスパーリングを追加撮影して挿入する程のこだわりようだった。
しかし『燃えよドラゴン』の公開直前の1973年7月20日、ブルースは急逝する。享年32歳。ブルースの死後に公開された『燃えよドラゴン』は、文字通り世界を変える映画となった。死後50年近く経つ現在でも世界のどこかで上映され、今なお多くの人々に影響を与え続ける作品となったのだ。
そして未完の作品となった『死亡的遊戯』は、そっくりさんを使って追加撮影が行われ、ブルースの死から約5年後の1978年に『ブルース・リー/死亡遊戯』として公開。追加撮影された部分については賛否両論があるのだが、クライマックスで約11分にわたって繰り広げられるブルースのオーラあふれるファイトシーンのクオリティは圧倒的で、カラテ映画ブームに沸く日本をはじめ世界中で大ヒットしたのであった。
ブルースは武道家としてアメリカで圧倒的な名声を得ていたが、彼の人生は終生映画人としてのものであった。そんなブルースが心を込めて作った5作品、『ドラゴン危機一発』、『ドラゴン怒りの鉄拳』、『最後のブルース・リー/ドラゴンへの道』、『死亡遊戯』、『燃えよドラゴン』がCS映画専門チャンネル ムービープラスにて、CS初となる4Kリマスター版で一挙放送となる。ブルースの映画は世界の映画人に影響を与え続けており、サモ・ハン、ジャッキー・チェン、ユン・ピョウなどの直接の後継者を経て、ドニー・イェンや全世界の映画人に引き継がれていくのである。
文:高橋ターヤン
『燃えよドラゴン』『死亡遊戯』『最後のブルース・リー/ドラゴンへの道』『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴン危機一発』はCS映画専門チャンネル ムービープラス「3ヶ月連続!カンフースターSP」で2022年9月放送
https://www.youtube.com/watch?v=dNa08HijE08&feature=emb_title
『燃えよドラゴン』『死亡遊戯』『最後のブルース・リー/ドラゴンへの道』『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴン危機一発』
CS映画専門チャンネル ムービープラス「3ヶ月連続!カンフースターSP」で2022年9月放送