「山に入ると、人生はとてつもなくシンプルになる」
40年以上前、ネパールに初めて行き、ヒマラヤを間近で見て、その美しさに圧倒された。それ以来、山に魅せられて時間があれば通い、クライマーに混じって写真を撮り続けている。
というのは真っ赤な嘘で、確かにまだ当時は掘建小屋だったポカラの宿から見えた明け方の山脈は神々しく輝いていたが、自分がその山の中に足を踏み入れることを想像すらしたことがない。何度も行っているネパール、インドではかなりの高度の町にもバスで行けるので、そこから写真を撮っている。
初ネパールの1年後、ある朝、なぜかひとりで高尾山に「登ろう」と閃いた。そのまま3月の普段着でカメラバッグを背負い、獣道のような初心者向けではないコースに挑んだ。途中で泣いた。雪が残っているから足は滑るし、カメラが重くて捨てそうになるし、どれくらいまで進んでいるのか全くわからない。もうこのまま死んじゃうのかも、と覚悟を決めそうになった時に登山道の横からいきなり完全装備のおじさん、おばさんが出てきた。やはり、「山をやる」ということはこういうことなんだと悟った。
しかし、この話を友人にしたところ、「高尾山は登山じゃなくて、ハイキング」と突き放された。
そもそもどうして山に登るのか、「そこに山があるからだ」では理解できない。かつては「俺が登った」「初登頂!!」「幾つもの苦難を乗り越えて」という記事が新聞誌面を賑わしていたので、そうか、山に登るということは承認欲求か、とわかったような気がしたが、そんなバカみたいなことをカケラも思ったことのない連中がいた。いや、この映画の中にいた。
冒頭の一言は、ドキュメンタリー映画『アルピニスト』の中で追跡されたマーク・アンドレ・ルクレールが語ったものである。
カナダ生まれの彼は少年時代にADHDと診断され、周囲とうまく馴染めなかったが、クライミングに興味を持って以来、驚異的なスピードで技術を身につけていく。まだ23歳。彼の名前は一部の一流アルピニスト以外にはほとんど知られていなかった。なぜなら誰にも、どこに登頂したと発信していなかったからである。携帯電話もパソコンも持っていない。当然のことながらSNSにも全く興味がない。
人に評価されたい、褒められたい、お金が欲しい、そんなことを否定するというよりも、頭の中にない。「山に入ると、人生はとてつもなくシンプルになる」のである。
優しい変わり者
パーティの会場で彼の噂を聞いたアウトドアのドキュメンタリー監督は俄然興味を持ったが、確かな情報をほとんど得ることができない。彼がどんな人間なのか、どこをどういうルートで登ったのかも定かでない。変人に違いないが、だからこそ燃える。ドキュメンタリーを撮ってきたのだから、そんな奴らには慣れている。
まず彼が住むというブリティッシュ・コロンビア州に向かい、なんとか探し出すことができた。撮影を歓迎していないことは明らかだが、人懐っこい笑顔で人を拒絶するような話し方ではない。むしろ愛されるために生まれてきたかのような青年。
彼の登山スタイルは単独登頂、命綱なしのフリーソロ。これまで自分の生き方を晒すようなことを嫌ってきたが、経験豊富なスタッフに打ち解けると撮影を許可した。それで、この映画が誕生する。
しばらくはうまい具合に撮影隊との息も合い、心臓疾患を持つ人にはお勧めできないシーンの撮影に次々と成功する。フリーソロを取り上げたドキュメンタリーは『フリーソロ』(2018年)ほか何本かあるが、ここまでフリーソロとは何かを考えさせるものではなかった。
臨場感・アングルはどちらが上という具合には比較できない。フリーソロではないが、『MERU/メルー』(2015年)も素晴らしい。ただ、この『アルピニスト』は不思議なことだが、ルクレールが撮影に積極的でない分、彼が何を感じていたかったのかが、逆に伝わってくるのである。やはり「山に入ると、人生はとてつもなくシンプルになる」、これなのである。
しかし、話はそれほど単純ではない。密着取材であれやこれや聞かれることは苦痛なのだ。それにスタッフがいれば単独登頂ではない。ひとりで登ることにこだわっていたのにな。違うな、これは。楽しくない。ああ、面倒だ。黙って逃げちゃお。と、まんまと逃げられてしまった。それでもこちらも根性だけは負けない撮影隊だ。探し当てた。話し合いの末、最小限のスタッフに絞り、極力彼を煩わせない方法での撮影を受け入れてもらった。そして23歳の彼は「それ、本当にやる?」と驚く計画に臨む。
では、なぜ山に登るのか
わからない。一度の失敗で死ぬのですよ、特にこのフリーソロでは。かつて名を成したフリーソロの猛者たちのほとんどは山で死んでいる。山をやる人間はちゃんと説明してくれない。説明できないから登るしかない、とレトリックで誤魔化そうとしても、胸に落ちない。今回成功しても、次回成功する保証はどこにもない。
観終わると、一気に疲労する。うなだれて劇場を後にするみなさんは何を思うんだろう。よし、俺もフリーソロを、という人がいたら教えてください。一応やめるよう説得に行きます。
文:大倉眞一郎
『アルピニスト』は2022年7月8日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開
『アルピニスト』
誰にも知られることなく、たった一人でクライマーの間で知られている登頂不可能とされていた山を次々と制覇している男がいる。そんな噂を聞きつけたドキュメンタリー映画監督、ピーター・モーティマーは、その謎めいたクライマーに興味を持つ。男の名はマーク・アンドレ・ルクレール。カナダのブリティッシュ・コロンビアで生まれた23歳の青年だ。モーティマーはマークを探し出し、その魅力的な人柄、そして、天才的なクライミング技術に惹かれた。
マークは命綱のロープを使わず、身体ひとつで山に登る。マークは子供の頃、ADHD(注意欠陥障害)と診断され、母親は、将来、息子が仕事につくのは難しいかもしれない、と不安を抱いた。しかし、少年はクライミングに興味を持ち、一人で山に登り、みるみる間に才能を開花させる。彼は近年のクライマーのように登頂に成功したことをSNSで誇らしげに発表したりはしない。携帯すら持っていないのだ。そして、自分の楽しみのためだけに登頂が難しい山に挑み続けた。そんな彼を支えるのは、同じように優れたクライマーでもある恋人のブレット・ハリントン。二人は一緒に世界中を旅してクライミングを楽しんでいた。
モーティマーはマークの映画を撮ることを決意。クライミングに同行して、至近距離からマークの姿を撮影した。それは驚くべき光景で、断崖絶壁を命綱を使わず素手で登っていく見事な動き。そして、クライミングに対する情熱を目の当たりにしたピーターは、撮影が進むなかでマークが何か大きな野心を抱いているのではないか、と思うようになった。そんなある日、マークは突然姿をくらましてしまう。ひとりでクライミングをするのが喜びだったマークは、次第に撮影をプレッシャーに感じるようになっていたのだ。そして、スタッフがようやくマークを見つけ出すと、彼は驚くべき告白をする。それはクライミングの歴史を変える〈事件〉だった。
監督:ピーター・モーティマー ニック・ローゼン
出演
マーク=アンドレ・ルクレール
ブレット・ハリントン
アレックス・オノルド
ラインホルト・メスナー
バリー・ブランチャード
制作年: | 2021 |
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2022年7月8日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開