色と色気の街、パリ
ロンドンで暮らしていると格別嫌なことがあったわけでもないのに、何かの拍子に気持ちがドローンと重くなることがあった。毎日、覚悟のないショボショボの雨が降ったり止んだり。冬は昼の3時くらいから暗くなり始める。レストランに行けば、ステーキの突き合わせのブロッコリーがフォークで突けないくらいドロドロ寸前の状態で出てくる。そんなところが私には合っていて、一生ここに住んでもいいと思っていた。
が、たまにパリに出張で出かけると心が浮き立つのだった。ロンドンじゃ絶対にやらなかったが、トマトとモッツァレラが挟んであるだけのバゲットを買って、公園のベンチで時間をかけて爺さん・婆さんたちが散歩するのを眺めながらそれを齧るとか、パリで暮らしているような脳みそ溶けそうな振る舞い。ああ、恥ずかしい。パリは色で溢れていて、そこいら中に人の色気を感じた。
パリ13区、いいよなあ。私は足を踏み入れたことがあるかどうかもわからないんだけど、もう響きだけでグッとくる。あまり人には言わないことにしているのだが、Netflixの『エミリー、パリへ行く』(2020年~)が大好きで、シーズン3、4も決定したニュースに浮かれている私だが、あのPR会社はどこにあるのかしら。リリー・コリンズの着るものはあまりにも突飛すぎて、とても日本では着こなせる人はいないけど、あれだけでもドラマを見る価値がある。
と、関係ないことを長々と書いたが、そんな“色と色気の街、パリ”なのに、映画『パリ13区』はモノクロである。もったいない。糖質100%オフのビールみたいじゃなか、と苦言を呈したくなるのはわかるが、モノクロのスクリーン上の登場人物はまさにパリの住人であり、悩み、泣き、笑い、セックスをする。監督は天才である。色を抜くことで、人物が逆に浮かび上がる。
ウディ・アレンの『マンハッタン』(1979年)へのオマージュだと監督は話すが、そこはどうだろう。私は『マンハッタン』の詩情ではなく、本作のよりダイナミックな人間模様が何より魅力的だった。
何かが起きているようで、何も起きない
台湾系フランス人エミリーは祖母のアパートで暮らす。そこにルームメイトを入れ、その家賃で自由になる金をなんとか捻出する。大学も出た優秀な彼女でさえ「自分に見合う」仕事が見つけられず、コールセンターで働いている。ルームメイトが出ていってしまったので募集広告を出すと、やってきたのはアフリカ系フランス人で高校教師のカミーユ。名前から女性だと思い込んでいたのにー。でも、ハンサムだし、頭も良くていい男だからまあ、いいか。ついでにセックスもしちゃっとこう。もう、恋人同士、みたいな。でも暮らし始めると、どうもそうじゃないらしい。セックスしただけじゃん、と、ああ、またそれかよ。本当の恋人に振られるほどショックなことじゃないけど、むしゃくしゃする。腹が立つ。
カミーユは“面倒な奴とやっちゃったな”とエミリーの部屋を出る。自宅に戻れば口うるさい両親が待っている。吃音で悩む妹は可愛いが、スタンドアップ・コメディアンになりたいと突拍子もないことを言うので、つい辛く当たってしまう。教師をやっていてもうだつが上がらないんで、カミーユは一時的に休職し、友人の不動産屋を手伝うことにした。
ソルボンヌ大学に復学したノラは32歳。本人は年齢なぞ気にしないが、周りはどうもそうではない。誘われたパーティで、金髪のウィッグをつけて思いきりはしゃげば距離も縮まるかも。ところが、その姿はネット上のアダルトサービスで稼いでいる“アンバー・スウィート”そっくり。「あいつアンバーじゃん」という、本人にとっては晴天の霹靂だが、すでにアンバーのサイトはクラスメート全員が視聴済みで、せっかくの復学、第2の青春プランは砕け散る。
やってらんないけど、稼がなきゃ、と求人の張り紙を見て不動産屋に飛び込むと、そこには不動産のなんたるかを小指の先ほども理解していないカミーユが。よし、私が全部やったげる、休学中は叔父の不動産屋で働いてたんだから。
変幻自在、ジャック・オディアール
そんな魅力的な登場人物が微妙に交差しながら、行く先が見えないこの物語は転がっていく。私が30くらい若かったら、こんな世界で闊達に人生を謳歌していたかな。してないな。ロンドンで地味に仕事してたんだから。
一番面倒なエミリーを演じるのは、大学で演劇を学びはしたが今回がデビュー作となったルーシー・チャン。眩暈がするほど私は、この22歳の俳優に魅了されました。彼女は「私は知的に話そうとするときはフランス語を使いますが、泣くときは中国語なんです。ドラマチックになります」と明かしている。そんなわけで、私はいつかルーシーと話がしたいだけのために中国語をガリ勉中。
カミーユを演じるのはマキタ・サンバ。多くの映画、ドラマに出演している。今作でセザール賞有望若手男優賞にノミネートされた。すごくイカしている。ノラは『燃ゆる女の肖像』(2019年)で一気にスターダムに上り詰めたノエミ・メルラン。
オディアール監督の作品は『預言者』(2009年)、『君と歩く世界』(2012年)、『ディーパンの闘い』(2015年)、『ゴールデン・リバー』(2018年)と観てきた。この4作もそれ以前の作品も、全て錚々たる賞を受賞している。どんな作品も正面から撮って完全に監督のものにしている。
「器用な」という形容詞は当てはまらない。寡作な分だけ作品を選んで納得がいくまで作り込んでいるということ。ちょっと珍しいタイプ。
文:大倉眞一郎
『パリ13区』は2022年4月22日(金)より新宿ピカデリーほか全国公開
『パリ13区』
コールセンターでオペレーターとして働く台湾系フランス人のエミリーのもとに、ルームシェアを希望するアフリカ系フランス人の高校教師カミーユが訪れる。二人は即セックスする仲になるものの、ルームメイト以上の関係になることはない。同じ頃、法律を学ぶためソルボンヌ大学に復学したノラは、年下のクラスメートに溶け込めずにいた。金髪ウィッグをかぶり、学生の企画するパーティーに参加した夜をきっかけに、元ポルノスターでカムガール(ウェブカメラを使ったセックスワーカー)の“アンバー・スウィート”本人と勘違いされ、学内中の冷やかしの対象となってしまう。大学を追われたノラは、教師を辞めて一時的に不動産会社に勤めるカミーユの同僚となり、魅惑的な3人の女性と1人の男性の物語がつながっていく。
監督:ジャック・オディアール
脚本:ジャック・オディアール セリーヌ・シアマ レア・ミシウス
原作:エイドリアン・トミネ
出演:ルーシー・チャン マキタ・サンバ
ノエミ・メルラン ジェニー・ベス
制作年: | 2021 |
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2022年4月22日(金)より新宿ピカデリーほか全国公開