惹句師・関根忠郎の映画一刀両断『斬、』

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ライター:#関根忠郎
惹句師・関根忠郎の映画一刀両断『斬、』
『斬、』©SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER
もし貴方が、一本の刀を手渡されて、「人を斬れ!」と言われるときがくるとすれば、どうしますか? 無論、現代の今、そのようなことは起こらない〈筈〉ですが…。 関根忠郎

塚本晋也監督の最新作『斬、』は、初の時代劇。

『斬、』©SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

開巻、濛々たる蒸気のさなか、熱せられた鉄が鍛錬され、一本の刀が作られていく。あたかも厳粛な儀式のように進行する、その工程が短く映し出され、次いで農村のどこか、戸外で二人の若者が木刀を手に夢中に剣術の修練に汗を流している数ショットが続く。浪人・杢之進(池松壮亮)が農民・市助(前田隆成)に剣術の稽古をつけているのだ。そこに市助の姉・ゆう(蒼井優)が来て、昼飯を早く食べないと片付けてしまうよ、と言う。いつかことが起きる前の日常的情景。ゆうと杢之進は心を通い合わせているようだ。

幕末の江戸近郊。農家の手助けをしながら食を得る杢之進は、やがてこの村を通りかかった浪人・澤村次郎左衛門(塚本晋也)から、折しも開国か否かで風雲を告げる時下、京都の動乱に参戦しないかと誘われる。内心に高い志を秘めて剣を磨く杢之進は、即座に話に乗ることはなかったが、血気にはやる市助は盛んに燃え上がる。そうしたさなか、村に無頼の浪人掠奪集団が現れて農民たちを怯えさせ、不穏な空気、というよりは危険極まりない血なまぐさいものを醸し出している。ゆうと村人たちは、杢之進に浪人集団を追い払ってくれと懇願するが、剣に剣をという思いには抵抗があった。やがて到来する思いもよらない事態。浪人集団に市助が殺されたのだ。ゆうが仇を取ってと杢之進を急き立てる。

映画の内容記述はここまでにして、この先の避けがたい人間葛藤は、これからこの映画をご覧になる方々のために控えておこう。塚本監督ならではの、斬新かつ冷徹非情、それでいながらどこか余裕とぬくもりと奥行きのある劇的世界がスクリーンに現前する。映画の不思議な手触り。それは長い映画鑑賞歴を持つ筆者も初めて味わう感蝕だ。時代劇であって、それでいて真っ向〈現代劇〉の感覚。あるいは鮮烈な〈青春劇〉。

2014年に『野火』を放った塚本晋也監督が、今度は初の時代劇に挑戦した。ただそれだけでも抑えきれない興味と関心を抱く向きも多かろう。『野火』のラスト、戦場の遼火は『斬、』の開巻、刀工による鉄の鍛錬の炎に繋がっている。火とは何!? 人を煽る魔物か!? あるいは戦火の予感?

人を斬る。人を斬れるか。一本の刀剣を見つめる若者の疑念。

人と人の斬り合い、殺し合い。これまで幾多の時代劇に描かれてきた斬り合いとは一線を画す剣と剣の恐ろしい闘争描写だ。周囲の煽りのさなかで、人を斬ることへの逡巡に沈む杢之進の苦悩。一方、温厚の風情を漂わせながら、同志を募って動乱に赴く次郎左衛門の野心と非情剣。この際立つ対照が、思わず唸りたくなるような緊迫クライマックスへと奔流していく。これが予測のつかない人間葛藤の、その果ての斬り合いなのか! ラストのゆうの叫びが、ことのすべてを集約して筆者の耳の中で長く尾を引き残響する。

「鉄」から「刀」へ。この究極の殺人凶器と美の表裏一体。

鉄。鋼鉄。ここから刀工の熟練した技術によって、一本の刀剣へと姿かたちを変える。鉄を三日三晩熱し、幾度も叩き砂鉄と墨を抜き鍛錬し、純度の高い和鉄を作る。刀の形をなしたところで、熱したその刀身を一気に水につけて冷やし、急激な温度変化で反りを作る。やがて華やかで動的な美しい刃紋が浮かび、地鉄(じがね)によって更に輝きを増す。まさに優美、神秘にして人を殺すための道具。

いや人を斬る武器が、こうまで美を携えた不思議。刀は平安時代に生まれて、今日まで時代的な変化を辿ってきた。話が一足飛びになるが、今、平和日本においては、刀剣は伝統芸術になり、若い女性ファンの間で鑑賞美術の熱い対象になっている。若い女性たちが、工芸としての日本刀の美に酔い、そこから歴史を学ぼうという行為が生まれているのは何という巡り合わせなのだろうか。

鉄製武器としての最古の日本刀が、こうした形で見直されていることを思うと、実に不思議な感慨を覚えさせられる。殺しの道具であり、と同時に美術品になっているという、両性具有のような日本刀の存在。

〈鉄〉は2度の世界大戦下、さまざまな殺戮兵器となった。

再び〈鉄〉という存在に目を向ける。今、この鉄というものに思いを馳せれば、少なくとも特に第一次世界大戦(1914~18)の勃発から第二次世界大戦(1939~45)の終りに至る年月の間のみに限っても、世界でどれほどの戦争兵器が、科学的進歩と共に作られてきたことだろう。例えば銃器(鉄砲、機関銃)、大砲、戦車、戦闘機、爆撃機、戦艦など殺戮目的の軍事兵器が戦争の様相を一変させて、最後には原爆投下という人類の大悲惨に行きついてしまった。

「一本の刀を過剰に見つめる若い浪人」という一行の発想。

『斬、』©SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

思わず話が脇道に逸れてしまったが、本題の映画に戻ろう。時を遡って1853年、黒船来航を機に、徳川250年の幕政が揺らいで、幕末を迎えるとともに、戦乱の武器〈刀〉の存在が重要になった。映画『斬、』は、ここを出発点として、切羽詰まった〈刀と人間〉の、抜き差しならない確執を浮上させる。

雑誌「シナリオ」(12月号)に、本作の脚本とともに、映画評論家・野村正昭さんによる塚本監督へのインタビュー記事が掲載されている。これによると、塚本監督は、30年前に「一本の刀を過剰に見つめる若い浪人」という、たった一行の話を考えついて、大事なアイデアだと思い、ずっと温めてきたという。そして最初のプロットができたのは、割と最近のこと。近年、また世の中が戦争の方向へ向かっているんじゃないかという危機感、恐怖感に駆られて、急ぎ「野火」を作ったものの、ある程度〈思いが〉届いたという気持ちがありながらも、時代は全く変わっていない。それどころか、もっと恐ろしいことになっているのではと感じて、その不安感が昔からずっと思っていた「一本の刀を過剰に見つめる若い浪人」と合わさって、一気に叫び声を上げなければという気持ちで作ったという。

製作規模は小品、広がる世界は深遠。

ちなみに塚本監督が時代劇の洗礼を受けたのは、1973年の市川崑監督『股旅』という作品。それに74年の黒木和雄監督『竜馬暗殺』といったATG映画を観て、小さな規模でも時代劇ができるんだと勇気づけられたとも言っている。

売れっ子で超多忙な主演・池松壮亮のスケジュールが、今夏折よく、突然都合がついたので、大急ぎでプロットをまとめてクランク・イン。山形県庄内の山村や森林で、わずか3週間で撮り上げた。たしかに製作規模は、期間、コスト、スタッフ編成ともにギリギリの最小レベルだったのではと思う。過酷そのものの撮影だったのではないか。しかしスクリーンに広がる世界は深遠だ。

映画『斬、』から思い起こす画家・松本竣介の一文。

あまりに突飛な連想で、しかもこの拙文が私事に及んでしまうかもしれないが、1937年生まれの筆者は、やがて45年に空襲で家を焼かれ、その焼け跡に家族と共に呆然と立ち尽くした経験を持つ。長じてこんなことを思い出す。37年の日中戦争勃発以後、日本は急坂を転げ落ちるように戦争の時代に突入していった。世界的に見ても、20世紀は〈戦争の世紀〉だった。

戦時を振り返って思い出すことがある。筆者が敬愛してやまない画家・松本竣介は自身の画業の傍ら、「雑記帳」という同人誌を発行していた。彼はそこにこんなことを書き記した。「非合理的気風が権威の位置に就き、わけもなく暴力を振るっている今日、それに迎合しようとする気風が一般を覆う」。凶気と蒙昧の時代が、避けがたく戦争を始めて行く不安と恐れ。そうした嘆きを、画家はこの「雑記帳」に綴っていたのだろうか。このことは長く記憶している。映画『斬、』を見て、突飛な連想かもしれないが、そんな思いも甦った。

文:関根忠郎

『斬、』公式サイト 渋谷ユーロスペースほか、大ヒット上映中!

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