最後の日本兵・小野田寛郎と俳優・津田寛治
化学反応前の物質と、反応後に生成された物質の全質量は等しいという「質量保存の法則」のように、人間も何かを得るたびに何かを失い、質量を保ってきたのではないか。そんなふうに感じる出来事に遭遇したとき、アルチュール・アラリ監督の『ONODA 一万夜を越えて』と出会った。
冒険をテーマにした映画を撮りたいと思っていたアラリ監督が、ジャーナリスト、ベルナール・サンドロンの書いた「ONODA 30 ans seul en guerre」をベースに映画化した作品。第74回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門のオープニング作品として上映され、絶賛された。1974年に作戦任務解除令を受けて、フィリピン、ルバング島から約30年ぶりに帰国したあの小野田寛郎元少尉の物語だ。
1974年は第一次オイルショックが起きた年。年平均実質成長率10.7%という驚異的伸びを示した60年代を経て、日本経済が戦後初めてマイナス成長に陥った年でもある。新型コロナウイルスの影響もあり、経済成長率が戦後最低となった2020年。生きるという根源的なことから社会を見ることが多くなった。そんな私たちに必要なのは何か? 小野田寛郎の成年期を演じた津田寛治さんへのインタビューから、その答えが見えてくるように感じた。
「インパクトが大きかったのは週休二日制(笑)」
―本作を撮るにあたってアルチュール・アラリ監督は、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『戦場からの脱出』(2007年)や『アギーレ/神の怒り』(1972年)、市川崑監督の『野火』(1959年)を参考作品に挙げられたそうですね。拝見したとき私は、なぜか同じ『野火』でも塚本晋也監督の『野火』(2014年)を強く思い浮かべました。
アラリ監督と塚本監督の映画作りは、自主映画的という部分で共通するのかもしれません。アラリ監督は万能であろうとはまるで考えていなくて、ただただこの映画に必要な画を追求し続けるスタイル。それ以外の部分は近しいスタッフ――制作部やお兄さんであるキャメラマンのトム・アラリに任せて思う存分、自分の世界に入り込んでいたと思います。塚本監督の場合は、カメラから何から全部自分でやることで、ご自身の映画世界に入り込む。スタイルは異なりますが、追求する姿勢は似ているような気がします。
―日本映画との違いを感じるところはありましたか?
海外の監督とここまでがっちり関わったのは初めてなので、“アラリ監督だから”という比較はできませんが、インパクトが大きかったのは週休二日制です(爆笑)。現場を週休二日で回し、休みのときにはパーティを開いてスタッフを労う、みたいな過ごし方は初めてだったので。日本では自分の限界を超える傾向すらありますが、『ONODA』では組合がちゃんと機能していて、スタッフさんはじめ、皆さん仕事として参加していました。それでも監督が何かを諦めている感はまったくなく、そのシステムを当然として力一杯ものづくりをされている。これが当たり前という前提は、一番大きな違いだと思いました。
―役を演じるにあたって感じた違いはありますか?
たぶん作品によると思うんですよね。ゆとりのあるほうがいい芝居ができるストーリーや役もあると思いますが、小野田寛郎役について言えば、ヘタをしたらジャングルに住むくらいの勢いで演じたほうが鬼気迫るものが撮れるかもしれない。そう感じることもありました。
―日本映画の製作現場では、長らくそれが当たり前でしたからね。育ってきた前提を変えるのは、その価値をしっかり共有しないとなかなか難しいですよね。
でも『ONODA』のようなかなりハードなストーリーであっても、一度休んで整理する時間を持つことで得られたことも結構あったように思います。
―撮影はカンボジアで行ったんですよね? お一人で参加されたのでしょうか。
そうです。空港から車で5時間くらいのカンポットという町を拠点に行いました。
―撮影期間はどのくらいだったのですか?
全体は2018年12月から翌3月までやっていたそうですが、僕は2月いっぱいの約1カ月間でした。
―作品から、かなり濃密な時間を過ごされたように感じました。
そうですね。そういう意味では週休二日じゃなかったらヤバかったかもしれません。スタッフが元気でいてくれないと、役者が他のことを考えなきゃいけなくなるケースもありますし。そこは何よりだったのかもしれないですね。
「監督はジャングルを描きたかったんだと強く感じた」
―小野田の人物構成について、アラリ監督から相談されることはありましたか?
ほとんどありませんでした。現代とは違う考え方を持つ日本人の、戦時の物語を日本ではない国で、オール日本人キャストで撮ること自体、相当なチャレンジだと思うので、やることは山ほどあったと思います。演出としては、小野田さんとはどんな人物であるかを一緒に掘り下げていくのではなく、各々掘り下げてきたものを現場でセッションする形で作っていきました。監督が考える小野田さん像と、読んだり、調べたりして作り上げた僕なりの小野田さん像を、お互い現場でぶつけ合う作業だったというか。ズレを少しずつすり合わせるうちに、監督のやりたいことが見えてきたように感じました。
―役作りについて、もう少し具体的にお聞かせください。
現場に行って気づいたのは、アラリ監督は小野田さんの稀有な半生を描きたいのではなく、ジャングルを描きたいんじゃないかということでした。30年間も戦時中と思いながらジャングルで生きてきた状況に、映画の匂いを感じたんじゃないかと。
僕の撮影パートは一人でジャングルに佇んでいるところが多いんですが、そのときジャングルの持つ特異性みたいなものをひしひしと感じるわけです。小野田さんはここに一人でいたんだと思ったとたん、台本の様々なことが腑に落ち、監督はジャングルを描きたかったんだと強く感じました。
―確かに隊が全滅し、一緒に落ち延びた数名も亡くなり、最後に小塚金七(千葉哲也)が殺されてから、鈴木紀夫(仲野太賀)が訪ねてくるまでは、小野田はジャングルに一人でした。一人きりでの撮影は、小野田と気持ちが被るような感覚に到達することもあったのでは?
ありましたね。台本に印象的なト書きがいくつかありました。小野田さんが一人になったあとで「花を摘む小野田」とか、「自然と同化する小野田」みたいな。それって瞑想状態というか、無に近い境地で、端から見たらたぶん透明に見えるくらいだったのではないかと思うんです。そのト書きがものすごく心に残っていたので、それを具現化できればと思っていました。
結局、演じていく中で小野田がそういう心境になったという内面を見せられればいいんじゃないかということになり、分かるように映像化はしませんでした。お墓参りにも、お花を摘む行為にも、その境地はにじみ出るのではないかと。実際にカメラが回っていない待ち時間に一人佇んでいると、僕自身、ふと自然と……草木と同化するみたいな感覚に陥ることもありました。
「人って目を疑うような状況に出会うと、あんな表情をするんだ……」
―お墓や仲間のゆかりの地を回っている小野田の姿には、托鉢僧のような風情があります。
そうですね。あそこは芝居をしている意識もあまりなかったように思います。忘れないという意識から出た行為であるのと同時に、何十年も前に亡くなった兵士たちのところに行って花を手向けることで、自分がジャングルのサイクルに組み込まれてしまうのをくい止めようとしたのではないかと感じました。僕自身、最初はもっともっと自然と同化してしまうのかと思いきや、演じてみたらブレーキをかけようとしている小野田さんの意思を感じた。だからこそ鈴木紀夫の前に姿を現したんだと合点がいきました。
小塚金七(千葉哲也)がいた頃はかろうじて営めていた人間としての生活は、小塚がいなくなった瞬間に崩壊し、人でないものへと加速する感覚に苛まれます。自分がジャングルの一部になっていくことにとてつもなく不安を覚えたとき、音楽が聞こえ、見たら青年がいた。鈴木に遭遇したときの小野田さんはそういう心境だったのだと思います。だからあの一晩で転換できたんだと思います。
―鈴木に対面した小野田の心境をもう少し教えてください。
鈴木を演じたのが太賀くんなので、お芝居が素晴らしいのは前提ですが、彼がこっちを見ている状況をジャングルから見て、川を渡る。カットは割れていますが、このシーンは何回も一連でやっています。渡って行くほどに鈴木の表情は僕の中でクローズアップされていきますが、あのときの鈴木はとんでもない表情をしているわけですよ。人って目を疑うような状況に出会うと、あんな表情をするんだ……という。あの表情があったからこそ、自分が異物になっていることを意識できたわけです。
高度経済成長期を生きていた日本人と、同じ国の人間だけれど30年間命令だけを拠りどころに兵士としてジャングルで生きた人間が出会った。全く異なる価値観を持つ者たちが出会う瞬間をリアルに感じさせてくれたのは、太賀くんのお芝居があったからこそだと思います。
―実際に小野田さんが帰国されたニュースを聞いたとき、どんなふうに思われたか覚えていますか?
当時は9歳くらいの子どもでしたからね。冒険家である鈴木は、無邪気に「パンダ、小野田さん、雪男の順番で発見したい」と言いますが、あれこそあのとき僕らが感じていたことなんだと思います。親に「フラッシュを浴びてテレビに出ているこの人は、何をやった人なの?」と聞くと、「日本の兵隊さんで、戦争が終わったことに気づかず、30年間ずっとジャングルで住んでいたのよ」という答えが返ってきました。それに「え! じゃあトイレどうしてたの?」と聞くほど、想像の及ばないくらいの開きがあったんです。
「小野田さんは帰国する際、まず何をしたか、何をしたかったのか」
―映画でも描かれますが、小野田は短波放送や現地の新聞からある程度の情報を入手していましたが、それを敵側の流すフェイクニュースだと思っていた。援軍部隊が来るまでゲリラ戦を指揮し、何が起きても生き延びるよう指令を受けた小野田には、それ以上も以下もなかったわけですね。
何を食べ、どこに寝ていたのか? 考えれば考えるほど小野田さんが“人”から乖離していき、それこそパンダや雪男と並ぶくらいに不思議な存在だと、当時の人々には思えたわけです。また指令を帯びて着任した小野田さんと、伍長だった横井庄一さんを一緒くたに考えてしまったこともあります。
横井さんは「恥ずかしながら帰ってまいりました」とおっしゃったけど、小野田さんは“恥ずかしながら”帰ってきたわけではなかった。日本に帰国する際、まず何をしたか、何をしたかったのかを含め、戦時中の日本の魂をそのまま持ち帰られた人だということを今回改めて理解しました。そこには良くも悪くも、高度経済成長期にいろいろなものを手に入れた日本人がなくしていったものがあったようにも感じました。
―小野田は最後、小塚と二人である種幸せにも見える、濃密な時間を過ごします。二人が上官と部下である関係を越え、運命共同体みたいになっていったその心境は演じていて、どういうふうに解釈されていたのでしょうか?
難しいところなんですよね。ここまで近くなると、今だと同性愛に近い感情と理解されるかもしれません。ただ僕はもっと複雑な関係性だったんだろうと感じました。自分の身体の一部というか、切り離せないものというか、命令を遂行する最小ユニットというか、言葉にし難い関係。それだけ一緒に孤独を過ごしてきたわけですから。
千葉哲也さんと僕の関係でいうと、千葉さんはざっくばらんな方で、そこに助けられました。僕に対して気を遣いすぎない、遣っていることを感じさせない方。僕が追い詰められる前に、自分が追い詰められてしまうという形の優しさを持ち合わせていたというか(笑)。千葉さんは舞台の演出をされる方で、舞台を作り上げるときの仲間意識は映画よりも強いこともあり、人の気持ちを汲むのがうまいのかなと思いました。千葉さんは小塚であるために、ものすごく泥臭くいらっしゃった。そのおかげで二人のシーンはとても楽でした。
―そんな関係性のお二人が海水浴を楽しむシーンは、人間の在り方を考えさせられると同時に、心休まる場面でもありました。
ははは。
「“この方向で間違いない”とアラリ監督に教えてもらった」
―一時期、日本では、津田さんが激痩せされたという報道がありました。それはこの映画のためだったのですね?
そうです。
―憶測でいろいろ書かれていたように思いますが、一切言い訳せずにいたことをすごいと思うとともに、根拠のないゴシップ報道がまん延していることに本当に辟易とします。
僕はあまりネットを見ないので気づいていませんでしたが、いろいろな人に「ネットで“津田寛治”って調べると“病気”って出てくるぞ」と言われました(笑)。先輩の俳優さんにも「おまえ、もうちょっと太ってないとまずいぞ」と心配されたり(笑)。
―この作品に出演されたことで変ったことはありますか?
一番、根本的なことでは芝居が変わりました。芝居の考え方とか、体現する、役を演じることへの思いとか。『ONODA』に入る前から徐々に変わっていたのだと思いますが、「この方向で間違いない」とアラリ監督に教えてもらったからだと思います。
―出会いは大切ですね。
そう思います。
取材・文:関口裕子
写真:芝山健太
『ONODA 一万夜を越えて』は2021年10月8日(金)より全国公開