普通のセールスマン、いきなりスパイになる
映画『クーリエ:最高機密の運び屋』は開始5分、まだ主演のベネディクト・カンバーバッチはチラリとも映らないのに、すでにゾクゾクがとまらない。ジョン・ル・カレ作品が引き合いに出されるのも理解できるが、そこから先はしばらくオフビートな喜劇のような演出で肩の力を抜きにかかる。カンババはもっさり中年太りな英国人セールスマンのグレヴィル・ウィンになりきり、なんだか弱気な宍戸錠みたいな雰囲気を醸し出す。
そうして時代を反映した大らかで享楽的なシーンを一通り描いたら、あとはピリピリした“交渉”や“密偵”のパートにズブズブと足を踏み入れていく。CIAとMI6にゲスな商人(あきんど)としてのイメージを買われたウィンは、ソ連軍情報部のオレグ・ペンコフスキーと接触しソ連の核情報を仕入れる“クーリエ=運び屋”になることを依頼されるのだ。まさにド素人スパイ誕生の瞬間である。
とはいえ、当然ながら素人ならではのドタバタ・スパイアクションみたいなお話ではない。最初は「核戦争があなたの家族にも悲劇をもたらす」という半ば脅しのような依頼ではあったものの、危険を承知でロンドンとモスクワを行き来したウィンとペンコフスキーは最終的に、世界が核戦争に最も近づいたと言われる1962年の“キューバ危機”を回避することに貢献した人物であり、控えめに言っても全地球を救ったスーパーヒーローなのだ。
スパイ活動を通して人間ドラマを描き、60年代当時恐怖を再現
スパイ劇としての緊張感は抜群だが、本作は人間ドラマとしても一級品。ペンコフスキーとの交流を通して、家族を、国を、世界を守ることができるかもしれないという使命感に徐々に突き動かされていくウィンと、同じ理由で祖国を裏切ることを選んだペンコフスキー。前者は米ソ間の緊張が高まるにつれて強烈なプレッシャーによって精神的に追い詰められ、後者は機密の漏洩を誰に密告されてもおかしくない恐怖からか体調を崩す。両者とも家族の安否が一番の気がかりであり、その視線は保ちながらも、世界、国、家族、個人というあらゆる単位でドラマが展開していく。
特にガチの一般人であったウィンの存在は、政治的衝突・戦争危機を身近な恐怖として感じさせるのにこれ以上ないほど貢献している。さらにペンコフスキーとの家族ぐるみの交流を丹念に描くことで、核戦争? スパイ? 現実味ないわ~みたいな層にも、この人たち感じ良いけどバレたらどうなってしまうん……きつい展開は勘弁してあげて……! と否応なく感情移入させるはず。それさえも難しいのならば、このさい中年男性たちの国境を超えた熱い友情物語として観たっていいだろう。
確かにスパイガジェットなどは登場するものの、蝶のように舞うわけでも蜂のように刺すわけでもなく、キリギリスに扮して蟻のように淡々と仕事をするウィンこそが、リアルなスパイの姿なのだろう。あからさまにヒロイックな描写も皆無だが、彼らの貢献がなかったら核戦争が勃発していた可能性は非常に高かったわけで、背筋がゾワ~っと薄ら寒くなる話である。なぜか自分を国家と同一化して高みから物言う輩がはびこる今こそ観ておきたい、真に国民のための偉業を成し遂げたスパイたちの実録ドラマだ。
『クーリエ:最高機密の運び屋』は2021年9月23日(木・祝)よりTOHOシネマズ日比谷ほか全国公開
『クーリエ:最高機密の運び屋』
1962年10月、アメリカとソ連、両大国の対立は頂点に達し、「キューバ危機」が勃発した。世界中を震撼させたこの危機に際し、戦争回避に決定的な役割を果たしたのは、実在した英国人セールスマン、グレヴィル・ウィンだった。スパイの経験など一切ないにも関わらず、CIA(アメリカ中央情報局)と MI6(英国秘密情報部)の依頼を受けてモスクワに飛んだウィンは、国に背いたGRU(ソ連軍参謀本部情報総局)高官との接触を重ね、そこで得た機密情報を西側に運び続けるが―。
制作年: | 2020 |
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監督: | |
出演: |
2021年9月23日(木・祝)よりTOHOシネマズ日比谷ほか全国公開