石井×池松×オダジョー『アジアの天使』
『川の底からこんにちは』(2009年)が話題となり、『舟を編む』(2013年)で一気に知名度が拡大した石井裕也監督。市井に生きる人間を時にたくましく、時に繊細に描いてきたが、近年は『生きちゃった』(2020年)や『茜色に焼かれる』(2021年)など社会的なメッセージを強く含んだ作品が続き、映画作家としてより高みへと突き進んでいる。
そんな石井監督が、韓国で制作した『アジアの天使』が、2021年7月2日(金)に劇場公開を迎える。兄(オダギリジョー)を訪ねて韓国に渡った弟(池松壮亮)が、ふとしたことから韓国人の家族と行き会い、ぶつかり合いながらも絆を育んでいく人間ドラマだ。コミュニケーションの断絶や生きづらさを描きながらも、同時におかしみやユーモアも感じさせる。まさに、酸いも甘いも嚙み分ける“人生”そのものを現したような、味わい深い逸品だ。
ところが、本作の制作は決して順風満帆とはいかなかった。日本語と韓国語の違いから生じるコミュニケーションの難しさはもとより、脚本も再三の書き直しが生じ、石井監督も出演陣も、苦心の末になんとか完成したものだという。優しさにあふれた映画の奥にあった、壮絶な労苦――。身も心もボロボロになった果てに、石井監督は何を得たのか。映画監督としての生きざまとあわせて、じっくりと語ってもらった。
自分でも予想外の「映画への愛」に満ちた作品に
―石井監督が書かれた「映画演出・個人的研究課題」(朝日新聞出版)には、本作の制作における苦労が克明に描写されています。ただ、作品自体は多幸感にあふれた味わいがありますよね。石井監督ご自身も「初号試写を観た時、なんて愛にあふれた優しい映画なんだろうって、自分でもびっくりした」とおっしゃっていましたが、こうしたギャップはどこから生まれたのでしょう?
今日は、まさにそのことを考えながらここまで来ました。ものすごくつらいことを切り抜けた先の温かみというか、安堵が詰まっているのかなと思いつつ、それだけでは説明がつかないんですよね。結局、「映画という不確かなものを信じられた」ことが大きかったのではないかと思います。
『アジアの天使』では、僕と韓国の俳優・スタッフは言語の壁があって、言語的にはおそらく6割くらいしか理解しあえていなかった。ただその中でも、映画に対して「これはきっと価値のあるものになる。新しい映画像を獲得できる」ということは信じあえていたんですよね。その結果、それぞれの映画に対する“良心”や、普段は口にも態度にも出さないけど映画に持っている“期待”や“願望”――そうしたピュアなものが結実したのかなと感じています。
―「30歳の頃から“映画と格闘しなければ”と感じ始めた」とお聞きしていたので、『アジアの天使』も当初はもっとギラギラしたものをイメージしていたのかな? と思いました。
おっしゃる通り、もう少し攻めたものになる予定でした。天使が色々な人を嚙んで、噛まれた人が天使の“声”になるような、どんどん天使が増殖して人間界を侵していくパンデミックもの……ちょっと大作っぽい感じといいますか(笑)、元々はそんな話でしたね。だから僕自身、こうした肌触りの作品になったことが不思議ですし、自分からは全く仕向けていないんです。
―ある種の偶発的な要素も大きかった作品かと思いますが、観た側としては、石井監督の初期作品に流れる「ユーモア」と近年の作品に顕著な「シビア」のハイブリッド作品に感じました。だからこそ、狙ってやっていないというのはすごく面白いです。
先ほど「映画は不確かなものだ」と言いましたが、そういう意味では、若いときのほうがもっともっと不確かなものだったんです。「映画がわからない」と思っていましたから。
映画って、ちょっとしたミスや出来事でみんなの心が離れかねないし、とても壊れやすい。だから扱いがすごく難しいのですが、やっぱり何回かやっていると良くも悪くも慣れてきて、映画作りが達者になってきてしまうんですよ。そういうものに抗いたい気持ちは、今回の作品に非常に出ているように思いますね。
「馬鹿だからこそ」出来上がった、挑戦者のメンタリティ
―石井監督は初期から、「対・世界」を意識されていたように感じています。そうしたメンタリティは、10代の頃に各地を放浪された経験から培ってきたものなのでしょうか。
そうですね。でも、自分の存在がいまおっしゃったようなものだと分かってきたのは、実はごく最近なんです。これは僕のコンプレックスでもあるのですが、もともと映画少年ではないというルーツが大きいんですよ。
―ほう! それは気になりますね。
僕は「映画が大好きで、自分の作品の中で映画的な遊びをするタイプ」ではなくて、どちらかといえば「映画というものを“武器”にして、世界に打って出る」人間なんですよね。どちらかというか、完全にそう(笑)。
◤脚本・監督◢
— 映画『アジアの天使』公式 (@asia_tenshi) May 26, 2021
#石井裕也
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『#舟を編む』(13)で #日本アカデミー賞 #監督賞 受賞、『映画 #夜空はいつでも最高密度の青色だ』(17)でアジア・フィルム・アワードの最優秀監督賞を受賞。
現在『#茜色に焼かれる』が公開中
🎬『#アジアの天使』
7月2日(金)公開 pic.twitter.com/thkKXHsZDl
―とても腑に落ちます。僕の勝手なイメージですが、石井監督は誰かの作品に刺激を受けて創作するというよりも、自分との格闘を突き詰めているのかな、と感じていました。
そうそう。だから、池松(壮亮)くんのような映画博士に対して、コンプレックスを抱いている部分もあります(笑)。
池松くんと一緒に飲みながら「どんな映画が面白かった?」と聞いて、そのときは「観に行きたい!」と思うのですが、いざ行くとなるとなかなか体が動かなくて……(笑)。観るときは観るんですが、タイプの違いなんでしょうね。
―石井監督が「武器」として映画を選んだのは、どういった経緯があったのでしょう?
自分の周りで、最も未知の存在が映画だったんです。漠然と“映画をやりたい”と考え始めたのは中学生のころですが、映画がどう作られているのかなんて全然わからなかったし、調べるすべもなかった。音楽や文学のほうが、まだ想像しやすかったんですよね。そういった中で、一番謎めいた映画というものが、当時の自分には魅力に感じたんだと思います。
―いまみたいにインターネットが身近だったり、YouTubeのような場がある時代ではないですもんね。
そう、だから本当に残念な世代ですよ(笑)。
―でも逆に、そのぶん自分で自分の居場所を作るというか、開拓者精神が強かったのではないか? とも思います。
そうですね。馬鹿だからできたんだと思います(爆笑)。
石井裕也監督の作品を貫通する「言葉」というテーマ
―近年の作品でいうと『生きちゃった』『茜色に焼かれる』『アジアの天使』は、特に「言葉」が背負う比重が強いですよね。リアリスティックな会話以上に、「感情を言葉で表現する」強度が増している。石井監督が思う「言葉」について、お考えをぜひ聞きたいです。
撮影した順番は『生きちゃった』→『アジアの天使』→『茜色に焼かれる』で、僕の中では『アジアの天使』『茜色に焼かれる』が近いところにいますね。『生きちゃった』はゴリゴリに言葉というものを扱っている印象があります。
後から色々と考えたことも含みますが、いまの時代って、やっぱり言葉が破綻していると思うんですよね。新型コロナウイルスに対する政府の対応を見ていても、質問に対する答えが返ってこない。それは国内に限った話ではなくて、かつてのトランプ政権でも昨日と今日で「あいつは信頼に足る人間だ」「いや、やっぱり敵だ」と完全に真逆のことをお構いなく言ってました。となると、少なくとも2016年くらいから、もうそうなっていたんですよね。要するに、国のトップと言われる人たちが「言葉」をないがしろにし始めた。そうした世の中の変化が、僕の中ではすごく大きかったです。言葉が信用に足るものではもはやなくなった、ということです。
つまり、自分の言葉や声が届かない状況こそが、いま感じている「生きづらさ」につながっているんじゃないかと捉えたんです。そういった中で、「言葉」をテーマにした作品の第1弾が、2017年の『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』なんですよね。
―非常によくわかります。2013年の『舟を編む』も「言葉」という要素はありますが、『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』から新たなフェーズに入った感がありました。
『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』の中で、池松くん演じる主人公が形骸化された言葉をばーっとしゃべるシーンがありますが、誰の耳にも届かない。ああいったシーンも、「言葉が破綻してしまった世の中で、どう生きていくのか」ということに自覚的になったからこそ、生まれてきました。
自分の本音を言っても仕方がないし、言ったところで届かないし伝わらないという感覚は、誰しもが世界的に持っているように思います。それをシンボリックに描いたのが『生きちゃった』で、『アジアの天使』に関しては、言葉というものが伝わらない前提で作られています。言葉が伝わらなくても、たとえ拙い英語でも何かを伝えようとする、意志のようなものを描きました。そのなかで獲得したものを日本に帰ってきてやったのが、『茜色に焼かれる』ですね。
「もう乗り越えられない」と思った瞬間が3、4回あった
―「言葉」のお話、大変興味深いです。『アジアの天使』だと、日本語で書いた脚本を、盟友であり本作のプロデューサーも務めたパク・ジョンボムさんに韓国語訳してもらったそうですね。
そういった制作過程も、「言語的には完全に理解しえない」という前提で行っていましたね。そうすると、いままで執着していたものや、無駄にこだわっていたものがどんどん削がれていくんです。そうした意味では、この映画の制作はなんだか破廉恥な気持ちでやっていた感じがします。「何でも捨てていいぜ!」ということは「何でも見せてもいいぜ!」ということですから(笑)。
―それは、韓国で映画を撮る上で、石井監督が期待していたものと一致していましたか?
それ以上でした。ここまで大変だとは思っていなかった……(笑)。
―「きつめの原点回帰」という表現をされていましたね。
脚本もあるし、撮影に入っちゃえばやるべきことはみんなである程度は共有しているので、楽しくはありました。トラブルは続きましたけどね。そこに行きつくまでが、まあ大変でした……(苦笑)。
―くじけそうになった瞬間もあったかと思うのですが、どうやって乗り越えていったのでしょう。
「もう乗り越えられない。万事休すだ」と思った瞬間が3、4回はありましたね。たとえば、別の作品のクランクアップを迎えて、2週間くらいずっと撮っていて疲れ果てていたときに、『アジアの天使』のプロデューサーから電話がかかってきて「日韓関係の悪化で、決まっていた韓国人俳優が降板しました」って言われたり……。「よし、これから韓国に行くぞ」って切り替えようとした矢先だったので、「あぁ、もう駄目だな」と思いましたね。
どうやって乗り越えていったのか、はっきりとは覚えていないですが、やっぱり池松くんを何年も待たせてしまっているという心苦しさはずっとありました。あと、「海外に行って映画を作る」と言っておきながら、尻尾を巻いて逃げ帰ってきたら本当にダサいじゃないですか。だからもう、意地ですね。
石井作品に通じる、役者たちの「聡明さ」
―本作は盟友である池松さんやオダギリさんとの再タッグ作ですが、この映画でしか観られない表情が全編にあふれているように感じました。『生きちゃった』『茜色に焼かれる』でも、出演陣の凄まじい力演が観られます。石井監督は、どうやって引き出しているのでしょう?
早い話、特にこの3本においては僕もそうだけど、出演してくれた俳優の方々が「お仕事」としてやっていないんですよね。『生きちゃった』だったら(仲野)太賀がラストシーンで壮絶な表情を見せていますが、彼とは10年近く友だちで、以前近所に住んでいたこともあって、よく会って人生についての話をたくさんしていたんです。だから、映画に行き着くまでのストーリーがそもそもあるんです。
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―これまでにおふたりで過ごしてきた時間や、培ってきた絆が大きく作用しているのですね。
そう。だから、あのラストシーンにおいても話すまでもなく彼はわかるし、ある種「演技をする」以上のもの――人生をかける姿勢を求められている、ということを理解してくれているんですよね。それで、ああいった表情が出てくるんだと思っています。
『アジアの天使』においては、韓国という異国の地で右も左もわからないなか、悩みながら奮闘する僕の姿を池松くんはずっと見ているから、「それと同等か、それ以上の苦悩をしなければならない」って考えてくれたんじゃないかな。『茜色に焼かれる』においては、コロナ禍の中で無理をして映画を撮る、しかもその内容が僕の個人的な母親への情念である、ということを尾野真千子さんが受け止めてくれたんだと思います。作品の重みを瞬時に察知できる人の芝居は、当然こちらの想定をはるかに超えてくる。
“この作品でしか観られない表情を撮ることができた”理由はやっぱり、そうした彼らの聡明さにあると思いますね。
―同時に、石井監督は撮影期間以外の役者との関係値も、とても大切にしているように感じます。衣装合わせで会ったら次は本番、みたいなこともままあるなかで、監督は出演者と時間や想いを共有したうえで作品を一緒に作るといいますか。
そうしないと、映画が人生と関わってこないんですよね。先ほどお話しした「僕は映画少年じゃなかった」という話にも通じるのですが、映画的に記号化された芝居やストーリーテリングに僕はあまり興味がありません。そうした作品は好きだし面白く観るのですが、作る側としては全く別のやり方になる。作り手と観客の“人生”を巻き込んだ映画作りをしていきたいですね。
いま映画館で観たいのは、本気の映画
―ある種、私的な要素もある作品を「観客に届ける」という部分においては、いま現在どう捉えていらっしゃいますか?
こういった作品が3本続いちゃったからそう思おうとしているだけかもしれませんが、いま映画館で上映してほしいなと僕が思うものは、やっぱり本気のもの、気合が入っているものなんですよね。
均質化された上手なストーリーって配信でいくらでも観られるし、そういうものを映画として作っても、いまはあまり意味がない気がするんです。コロナ禍になって1年半ほど経ちますが、自分が抱えている悲しみや虚しさに対して、それと同じぐらいの質量が伴った言葉がこの世界にあっただろうか? と思っていて。色々な識者や有名人、セレブが様々な発言を行いましたが、少なくとも僕にとっては、そうした言葉は見当たらないんです。
だからこそ、「正真正銘これに人生かけてます」という凄みや気迫が伝わってくる作品のほうが、僕は信用できるんですよね。……と思ってたら、3本ともこんな映画になっちゃった(笑)。このままいくのもスマートじゃない気はしているので、次は色々な違う手を考えています。
―楽しみです! ただ、きっと石井監督ご自身の出力は変わらないような気がします。あくまでコーティングの違いですよね。
はい、全くその通りです。熱意みたいなものは、これからも変わらないですね。
取材・文:SYO
『アジアの天使』は2021年7月2日(金)よりテアトル新宿ほか全国公開
『アジアの天使』
妻を病気で亡くした小説家の青木剛は、8歳になるひとり息子の学を連れて、兄の住むソウルへとやって来た。「韓国で仕事がある」という兄の言葉を頼っての渡韓だったが、いざ到着してみると、兄がいるはずの住所には、知らない韓国人が出入りしていて中にすら入れない。言葉も通じず途方に暮れるしかない剛は、自分自身と学に「必要なのは相互理解だ」と言い聞かせながら、意地でも笑顔を作ろうとする。
やがて帰宅した兄と再会できたはいいものの、あてにしていた仕事は最初からなかったことが判明。代わりに韓国コスメの怪しげな輸入販売を持ちかけられ、商品の仕入れに出向いたショッピングセンターの一角で、剛は観客のいないステージに立つチェ・ソルを目撃する。元・人気アイドルで歌手のソルは、自分の歌いたい歌を歌えずに悩んでいたが、若くして亡くなった父母の代わりに、兄・ジョンウと喘息持ちの妹・ポムを養うため、細々と芸能活動を続けていた。
そんな矢先、韓国コスメの事業で手を組んでいた韓国人の相棒が商品を持ち逃げしてしまう。全財産を失った兄弟に残された最後の切り札はワカメのビジネス。どうにも胡散臭い話だったが、ほかに打つ手のない剛たちは、藁をも掴む思いでソウルから北東部にある海沿いの江陵(カンヌン)を目指す。同じ頃、ソルは事務所から一方的に契約を切られ、兄と妹と3人で両親の墓参りへと向かうことに。運命的に同じ電車に乗り合わせた剛とソルたちは、思いがけず旅を共にすることになる。
制作年: | 2021 |
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監督: | |
出演: |
2021年7月2日(金)よりテアトル新宿ほか全国公開